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情報自由論第1回

情報化とセキュリティ化が交差するところ

著者:東浩紀
初出:『中央公論』2002年7月号、中央公論新社


この連載は、「情報化」された社会の現状と照らし合わせ、個人の「自由」の位置を考えることを主題としている。とはいえ、そんな巨大で複雑な問いにそう簡単に答えが見つかるはずもない。そもそも研究者としても評論家としても駆け出しの筆者には、「自由」とはいかにも荷が重い言葉である。したがってこの小論では、情報化と自由の関係を分析するために必要な前提に届くか届かないか、その入口あたりまで行ければ僥倖だと考えている。はじめにそのことを断っておきたい。

にもかかわらずこの小論を書こうと決意したのは、現実の政治的かつ社会的な変化が、筆者のほうの準備を待ってくれそうにないと判断したからである。一九九〇年代の情報技術革命を通り抜けた私たちは、いま、今後数十年の社会が辿る大まかな道すじを決める、歴史的に重要な時点に差しかかっている。

情報技術と自由

まず現状の概観から始めたい。過去十余年の情報技術革命は、私たちひとりひとりのコミュニケーション能力を大幅に拡大し、政治的自由や思想的自由の恩恵を多くの人々に与えてきた。しかし他方で、その革命の産物は、かつてなく強力な監視を可能にし、個人の自然権的な自由を切り崩す危険性も秘めている。

たとえば、携帯電話を持ち歩くことは、いつでもどこでも連絡が取れるという新たな自由を手に入れることである。しかしそれはまた、だれからも知られず移動するという古くからの自由を手放すことでもある。というのも、携帯電話は通話・非通話にかかわらず位置情報をつねに基地局に送信しており、そのログ(記録)を解析すれば所有者の行動範囲は簡単に分かってしまうからだ。市民の大半が携帯電話を持つ社会とは、つまり、市民の大半の位置情報がつねにどこかの電話会社のデータベースに記録され、保存されている社会のことである。

このようなデータの集積は、使い方によっては特定の個人に対するきわめて強力な武器になる。二十一世紀の情報技術は、ひとに自由を与えるものであると同時に、ひとから自由を奪うものでもある。したがって、今後ますます情報化が進むであろう私たちの社会の行く末は、この新たな技術を、自由を与えるほうに使うのか、それとも自由を奪うほうに使うのか、その選択に掛かっている。

情報技術革命が未熟だった九〇年代半ばまでは、その選択の針は、おおかた「自由を与える」ほうに振れていたと言える。インターネットにしろ仮想現実にしろ、当時は情報技術の可能性に過剰な期待が集まり、従来の法や社会秩序から離れたユートピアの到来が夢見られていた。そしてその実現のためにも、新たな公共空間である「サイバースペース」の住人には最大限の自由を認めるべきだと論じられていた注1。情報技術は人間の可能性を最大限に引き出してくれる、コンピュータとネットワークが世界を覆い尽くす新たな時代には、だれもが自由で、だれもが豊かになれる、といった熱狂が、多くの人々を掴まえていた。米国の西海岸でとりわけ強かったこの論調を、イギリスのある研究者は、皮肉を込めて「カリフォルニア・イデオロギー」と名づけている注2

しかし、いまやだれもが知るように、その幻想は長続きしなかった。九〇年代末から二〇〇〇年代にかけ、情報技術革命が成熟期を迎え、新たなインフラが整い、ネットワークの経済的・社会的影響が増大するにつれて、知的所有権の侵害やコンピュータ・ウイルスの蔓延、個人情報の漏洩、携帯電話やインターネットの匿名性を悪用した重大犯罪の増加などの新たな社会問題が頻繁に報道されるようになった。そのような環境の変化のなかで、いまや、情報技術を利用する自由はあるていど制限されるべきだという考えがコンセンサスになり始めている。その動きは先進諸国で共通しているが、日本でも、ここ数年、インターネット上の表現活動や商取引を対象とした法整備が相次いでいる。昨年秋に成立したプロバイダ責任法や、今国会で審議中の個人情報保護法案、同じく審議が予定されている古物営業法改正案(ネット・オークションの規制強化)などがその一例である。情報技術による自由の拡大というモデルは、もはやかつてほど強くは支持されていない。

セキュリティ化

情報技術と自由の関係を考えるうえでもうひとつ欠かせないのが、社会の「セキュリティ化」という視点である。

日米欧などの先進諸国は、政治的にも社会的にも文化的にも、二十世紀の最後の三〇年間に大きな変容を遂げた。この変化はだれもが感じていることだと思うが、現代思想の分野ではそれを「ポストモダン化」と呼んでいる。そしてこの変化の結果、現在の先進諸国では、程度の差こそあれ、社会全体をまとめ上げる象徴的=国家的統合の力がかなり衰えてしまった。その果てに現れたのが、表面的には構成員の多様性を認め、しばしば奨励さえする九〇年代の多文化主義的な社会である。

しかしそのような寛容さは、実は、危険な隣人を「排除」し「隔離」するセキュリティの論理の蔓延によって支えられていることが政治哲学者や社会学者の研究で明らかになっている注3。この点についてはのちにあらためて論じるが、「ポストモダン化」とはひとことで言えば社会の構成員全員が信じる常識=物語の有効性が壊れていくということなので、その変化の結果、構成員間の不透明性が高まり、いつどこからどのような危険が降り注ぐのか予測がつかない、危機意識が蔓延する社会が生まれることは何となく理解できるだろう。

社会のセキュリティ化は、文化のポストモダン化と多文化主義化が極端に進んだ米国でまず顕著になった。しかし、九五年の阪神・淡路大震災とオウム真理教事件の衝撃以降、日本でも徐々に支配的になりつつある。実際、ここ数年の報道を見ても、未成年の犯罪者やストーカー、カルト教団、外国人窃盗団、触法精神障害者などに対する強い関心は衰えるところを知らない。その関心の高まりは、いつだれが自分の生活を脅かしてくるかもしれない、しかもその危険人物は自分のすぐ傍に潜んでいるのかもしれない、という不安感が市民のあいだに広く蔓延していることを反映している。その危機意識は社会構造の変化に深く根ざしているので、少年犯罪の推移など、個々の犯罪統計を根拠に合理的に説明しても静まることがない。

9・11の重要性

とりわけ昨年は、先進諸国におけるセキュリティの論理の全面化をはっきりと浮かび上がらせる象徴的な事件が起きた。言うまでもなく、九月十一日に起こった米国同時多発テロ事件、いわゆる「9・11」である。

この事件は米国においては、国家単位の安全保障(ナショナル・セキュリティ)の問題だけではなく、同時に、国内の公安活動(パブリック・セキュリティ)の問題であり、また情報管理(コンピュータ・セキュリティ)の問題でもあると受け止められた。事件の数日後に提出され、翌月に米国議会で可決された包括的なテロ対策法は、国内の当局に捜査情報をCIAと共有する権限や、裁判所命令なしでインターネット上の通信を傍受する権限を認め、また、テロリズムの定義を拡大し、コンピュータ犯罪も含めることを明記している注4。二十一世紀の新たな「敵」は、国民国家の内側と外側、現実世界と仮想世界の境界を越えて、いたるところに潜みうると想定されているわけだ。ここではもはや、軍事も警察も公安も民間の情報管理も、すべて「セキュリティ」の名のもとに連続的に捉えられている。

私たちの社会は確かに複雑で不透明な社会になっている。セキュリティの強化はその性質から導かれるものなので、不可避な側面もある。9・11は多くの市民にその必要性を訴える絶好の機会になった。しかしそこで過剰に膨れあがったセキュリティ意識が現代の情報技術と結びつくと、いささかSF的な事態が生じることになる。

そもそも米国では、9・11の前から、スーパーボウルの会場入口にカメラと人相認識ソフトウェアを組み合わせた監視装置を設置し、観客の人相と犯罪者の人相を自動照合するなど、犯罪予防のための先端技術の利用が積極的に進められていた注5。昨年来日本でも話題になっている衛星通信傍受システム「エシュロン」や、FBIのメール傍受システム「カーニボー」など注6、ほかにも多くの例が挙げられる。このような傾向が市民の自由やプライバシーを脅かしかねない危険なものであることは、米国内でも、ACLU(アメリカ市民自由連合)やEPIC(電子プライバシー情報センター)のような市民団体によって繰り返し指摘されてきた。

しかしその抗議の声も、9・11の惨劇によって急速にセキュリティ重視に振れた世論の前に、いまでは空しく響き始めている。たとえば前述のテロ対策法は、「出入国データベース」の改善に際し、バイオメトリクス(生物測定法)の導入を検討することを定めている。バイオメトリクスとは、指紋や虹彩、DNAなどの生物学的な特徴を分析し、個人の認証に使う最新の技術である。個人の生物学的な特徴がデータとして収集され、記録され、必要とあらば犯罪捜査や公安活動に利用される。このような監視体制の整備は、ジョージ・オーウェルが『一九八四年』で見せた想像力すらはるかに凌駕している。

私たちは二十世紀の末に新しい技術を手に入れた。しかし、そこで可能になった自由の広がりが言祝がれていた時期はまたたく間に過ぎ去り、いまや、セキュリティ化の波に乗って、同じ技術が逆に市民生活を管理するために使われつつある。この一〇年間で、情報技術の針は、「自由を与える」ほうから「自由を奪う」ほうへ大きく振れてきたのだ。

個人情報保護法

そしてこのような流れは、いまや、この国の普通の市民にとっても身近な問題になりつつある。たとえば、さきほどもちらりと触れた個人情報保護法案を見てみよう。この法案はつい先日に国会審議に入ったが、ジャーナリズムの表現の自由や報道の自由を脅かしかねないものとして、現在マスコミで批判意見が相次いで報道されている。しかし実はこの法案は、ジャーナリズムの規制以外にも、数多くの問題を抱えている。

そのひとつが「個人情報取扱事業者」の定義である。法案の第二条は、個人情報取扱事業者を「個人情報データベース等を事業の用に供している者」と定義している。多くの読者は、この文言から、顧客の住所録を管理する民間企業や学生名簿を管理する学校法人をイメージするかもしれない。従来の社会ではそのとおりである。しかし、インターネットの情報流通を前提に条文を解釈すると、同じ規定がまったく異なった射程をもつものに変わってしまう。

たとえばインターネットには「掲示板」と呼ばれる特殊なページがある。管理者が一定の目的をもって開き、利用者が自由に書き込んで情報交換に使うことができる。この掲示板のシステムは、一般に、管理者がそれを意図するか否かにかかわらず、利用者のハンドルネームやIPアドレスを自動的に記録している。ここで問題になるのが、今回の定義では、その記録が「個人情報データベース」と見なされる可能性があることだ。無料サービスの充実もあって、インターネットのヘビーユーザーでなくても、個人で掲示板を開設している人々は多い。いまの法案では、その少なからぬ数に「個人情報取扱事業者」の資格があることになってしまう。

これは杞憂ではない。今年三月の新聞報道によれば、立案責任者の内閣審議官は、個人情報取扱事業者には営利目的の法人だけではなく個人やNPOも含まれると明言し、事業者認定の基準は「五〇〇〇人分の個人情報」だと語っている注7。五〇〇〇なら十分に多いのではないか、と感じる読者もいるだろう。しかし、手作業で作成する名簿や住所録と異なり、コンピュータで処理される情報の量が圧倒的に大きいこと、しかもしばしばその事実に管理者自身すら気がついていないこと(多くの掲示板の管理者は、おそらく上述のようなシステムをまったく意識していない)には注意しておく必要がある。技術的な詳細は割愛するが、もし個人サイトを独自のドメイン名を取得して開設したとすると、多くの場合それだけで「五〇〇〇人分の個人情報」が集まってしまい、事業者として規制の対象になるのではないか、という危惧もネットワーカーから表明されている注8。考えすぎだと感じる読者もいるかもしれないが、現在の法案では、少なくとも、このような拡大解釈に有効な歯止めがかけられていない。

個人情報とインターネット

多くの民間企業が何百万人もの顧客情報を管理し、しばしばその漏洩や悪用が問題になっているいま、市民の安全を守るためにも、「個人情報」を対象とした新たな法整備が必要であることは疑いない。これもまた広義のセキュリティの問題である。そして実際、そのような観点から個人情報保護法の早期の成立を望む声も聞こえる。しかしそのような法案の有効性は、規制するべき「情報」の範囲を明確にすることではじめて保たれる。というのも、現在の情報化社会、とりわけインターネットにおいては、人々は個人情報をばらまきながら社会活動を行っていると言えるからだ。

日常的にはあまり意識しないが、私たちは実は、ウェブサイトをひとつ見るごとに、自分の使用機種やブラウザの種類、そのサイトに入る直前に見ていたページのアドレスなどの情報を相手のサーバーに無防備に曝している。そもそもインターネットとは、ラジオやテレビとは本質的に異なり、ユーザーのコンピュータがサーバーに要求を出し、それに応えて送られてきた情報を再構成することで成立する双方向型のメディアなのだ。テレビを見ることは完全に匿名的な行為である。しかし、インターネットを「見る」ことは、原理的に、多かれ少なかれ個人情報を譲り渡す行為にならざるをえないのである。

したがって、そこであらゆる個人情報を「保護」することは、必然的にインターネット全体の管理体制を作ることに繋がってしまう。今回の法案は、まさにそのような総体的な規制強化に向かっている。しかし、掲示板やウェブサイトを立ち上げるとそれだけで「事業者」になってしまうというのでは、情報化社会のセキュリティを増す一方で、インターネット上で新しい表現活動やビジネスを展開しようと考えている多くの人々の意欲を削ぐことになるだろう。そしてそのとき、セキュリティと引き替えに導入される規制の網は、もはや企業や法人を超えて市民ひとりひとりに被せられることになってしまう。インターネットが日常生活に溶け込んでしまっているいま、情報技術に対する規制強化は、多くの国民にとっても決して他人事ではない。

住基ネット

あともうひとつ、情報化とセキュリティ化の結合という点でより分かりやすいのは、九九年に改正された住民基本台帳法の例である。日本は実は、この夏に運用が始まる住民基本台帳ネットワーク(住基ネット)によって、世界最大規模の個人情報データベースをもつ国家となる。いまのところ、このシステムは、住所、氏名、性別、生年月日、住民票コード、変更履歴の六種類の情報のみを管理し、また、情報の利用範囲も一〇省庁九三件の事務に限られている。国民総背番号制を警戒する世論に対して、政府は従来、この限定を理由として「住基ネットは国民総背番号制にあたらない」と説明してきた。

ところが、新聞報道によると、本格的な運用開始を前に、総務省は早くも住基ネットの利用範囲の拡大を検討している注9。また情報の種類も拡大される可能性が高い。住基ネットの稼働後、希望者にはICカード(住基カード)が交付される。カードへ収められる情報は当初は上記の六種類のみだが、不必要に大きい記憶容量が実装されている。そして実際、昨年三月より、この住基カードを基礎として、健康保険証や運転免許証、パスポート、図書館など公的施設の入館証、社員証や学生証、定期券、プリペイドカード、病院の診察券など、行政分野から民間分野にいたるさまざまな機能を一枚のカードに集約させるシステムの検討が関係府省庁で始められている注10。この構想が実現すれば、個人の社会生活を構成するほとんどの情報が、一枚のカードに収まり、国家単位のネットワークへ接続されることになる。

電子政府や電子自治体の実現のために住民情報の一部をオンライン化するのは避けられないとしても、利用範囲や管理情報のこのような拡大が市民のプライバシーを脅かすことは明らかだ。たとえば日本ではすでに、警察庁によって、「Nシステム」と呼ばれる世界最大の移動車両追跡システムが運用されている。Nシステムのカメラは高速道路や主要国道の頭上、あるいは料金所の脇などに七〇〇ヵ所近く備え付けられ、走行する一般車両のナンバーを自動的に撮影し、各県警本部の大型コンピュータで画像分析したうえでデータベース化している。このシステムは一五年以上前から稼働し、収集された情報は、公式には盗難車両の捜索のために使われるとされている。

しかし実際には、とくに九五年のオウム事件以降、公安活動のため積極的に利用されてきたことが、市民団体の調査で明らかになっている注11。警察庁はこのシステムについての情報開示を拒否しているので注12、自分のデータがどのように利用され、いつ破棄されているのか、国民にはまったく知らされていない。

このようなシステムが拡張された住基ネットと結びつけば、必然的に、きわめて強力な監視機構が出現することになる。主要国道や高速道路を走るごとに、自分の車のナンバーが読みとられ、住民票と照合され、年齢ごと、性別ごと、地域ごとにソートされる。住基ネットを流れる情報が拡張されれば、職業や病歴、プリペイドカードの使用履歴などとの照合も可能になる。しかもその情報は、一定期間保存され、捜査上必要とあればあとから自由に検索できる。これはつまり、もし日常的に自家用車を使っていれば、何月何日に何をしたのか、生活の少なからぬ部分がデータ化され、「後検索」が可能になることを意味する。このような未来は、いまや、既存の法や制度の延長線上にある。

確かに、いつどこでだれが何をしているのか、あらゆる個人情報が集まるシステムを作れば、重大犯罪の検挙率も少しは上がるかもしれない。防犯効果もあるだろう。そして私たちは、それを可能にする技術をもっている。しかしその導入の代償も大きい。私たちは、そう遠くない未来に、行政事務の効率化とセキュリティの上昇を選ぶのか、それとも多少は不便で危険でもプライバシーが保たれる社会を選ぶのか、難しい判断を迫られることになるかもしれない。

本論の目的と限界

以上のように、情報化とセキュリティ化の大きな二つの波は、いまや、たがいに交差しつつ、新たな権力の場所を生み出しつつある。この連載を始めるにあたり、筆者に見えているのはそのような光景である。次回以降は、この光景から出発して、それら二つの波の狭間に漂っているのかもしれない(?)、新しい「自由」のほうにゆっくりと進んでいくことにしよう。

本論の目的と限界をあらためてはっきりさせておきたい。筆者は社会科学の研究者でも市民運動家でもない。その筆者が以上のような問題に遭遇したのは、専門である現代思想の分野でメディア論を研究していたからである。コンピュータやデジタル技術の登場は思想の姿をどう変えるのか、インターネットやハイパーテクストの構造から見えてくる人間の本質とは何か、そんなことを主題として研究を進めていたところ、気がついたら、情報技術の編成が法や政策と結びつき始めており、哲学の問題意識を超えていたのだ。

そんな筆者には法や政治についての専門的な知識はない。上に記した個人情報保護法案や住基ネットの問題点も、注で示した参考資料にあたっていただければ、そちらのほうによほど詳しく記されている。したがって以下では、個々の政策の問題点を細かく指摘することは、できるだけほかの論者の手に委ねたい。

筆者がいますべきことは、にわか勉強で仕込んだ知識を披露することではなく、むしろ、現代思想で学んだ枠組みを活かして、以上のような情報化とセキュリティ化の二つの波がどこから来て、どこに行くのか、その性質を少しでも明らかにし、それらが交差するところに立ち現れる二十一世紀型の権力の構造を少しでも理解しやすくしておく、そんな抽象的な課題にあると思うからだ。

批評家には抽象的なことしか言えない。しかし、社会が大きく変容し、政治的言説の有効性も文学的想像力の有効性もともに崩れかけているいまだからこそ、逆に、そのような抽象的な枠組みによってしか浮かび上がらせられない現実があるのではないかと、そんな希望も抱いている。次回以降の展開から、読者のみなさんが何かの洞察を得て、わずかでも現実社会の変化へと繋がっていくことがあるとすれば、それに越した喜びはない。


(現在準備中)