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情報自由論第12回
ネットワークに接続されない権利(後編)
著者:東浩紀
初出:『中央公論』2003年7月号、中央公論新社
「ゲイテッド・コミュニティ」の伸張
(前回の続き)
ここで障害者の例を挙げたのは、今後だれもが直面するはずの普遍的な問題を浮かび上がらせるためである。連載の前半部分で強調したように、現代社会は、中心となる規範意識(大きな物語)が失われたため、新たな統合性を技術的な手段で確保する方向に動いている。ポストモダン論や社会学の成果は、その延長線上にある社会が、構成員ひとりひとりの信条や価値観には手を出さないかわりに、危険な人物をあらかじめ排除する「環境管理型社会」になるであろうことを教えてくれる。
そして、この変化は、公共空間の性質も大きく変えてしまう。二十世紀の公共空間はだれもがそこに入れる広場をモデルとしていたが、二十一世紀の公共空間は、入口にIDカードの読み取り装置と監視カメラを備え付けた「ゲイテッド・コミュニティ」をモデルにしつつある(注1)。たとえば、セキュリティの観点から考えると、近い将来、交通機関の多くが、利用者ひとりひとりに安全な市民としての積極的な自己証明を求めるようになることは十分に予想される。そのときには、いま国境を通過するためにパスポートが必要なように、国内便や新幹線のゲートを通過するためにも特定のカード(または、身分情報をダウンロードした携帯電話や、バイオメトリクスによる住民証明などのプロセス)が必要になるだろう。
これはテロ防止の例だが、児童保護の観点から見ても同じような変化が予想される。たとえば、歌舞伎町のような歓楽街には、すでに多数の監視カメラが設置されている。その延長線上で、携帯電話や無線カードの位置情報を利用し、深夜、未成年者が「危険」な街路に迷い込むと、最寄りの交番や保護者にただちに通報が行くようなシステムの整備は十分に考えられる。実際、昨年には、イギリスの有名サッカー選手が、誘拐防止のため子どもたちの身体にGPSチップを埋め込むことを検討しているとの報道がなされ、世間を賑わせた。報道そのものは無責任な噂にすぎなかったが、セキュリティへの関心が高まっているいま、この種の話には、冗談では済まされない現実味が宿っている。交通機関や繁華街は、今後、だれもが利用可能な「開かれた空間」としての性質を徐々に失っていくだろう。
周知のように、このような変化には、プライバシーに関心を寄せる運動家や市民団体から強い批判が寄せられている。しかし、第八回で検討したように、個人情報をすべて「所有物」とみなし、所有者の管理下に置くべきだとするプライバシー=自己情報管理権の発想は、ネットワーク社会では原理的に破綻せざるをえない。また、市民感情という点で見ても、プライバシーとセキュリティのあいだのバランス感覚は以前とは大きく変わってきている。したがって、鉄道や飛行機を利用し、繁華街を歩くたびに個人情報を奪われることを、ただそれだけをもって悪だと判断することはできない。
個人情報を奪われない権利
しかし、個人情報を収集することそのものが悪とは言えないとしても、それでいま進んでいる管理システムの拡大がすべて肯定されるわけではない。というのも、ここで問題とされるべきなのは、本当は、個人情報を奪われることではなく、個人情報を奪われないという権利が奪われることだからである。
個人情報を奪われない権利が奪われる、といった表現は、いかにも回りくどく、結局同じ事態を複雑に言い換えただけだと思われるかもしれない。しかし、その両者のあいだには大きな差異がある。「個人情報を奪われる」ことに対する危機感は、情報そのものの所有権を前提としているが、「個人情報を奪われない権利を奪われる」ことに対する危機感は、個人情報を収集し分析することでしか公共空間の開放性を確保できない、この社会の原理そのものへの懐疑に支えられているからだ。
繰り返すが、行政や企業が個人情報を収集することは、それがサービスやセキュリティの充実に繋がるのであれば決して悪いことではない。しかし、そのことと、個人情報を提供しなければ多くのサービスが受けられず、安全も保証されないような神経症的な社会を作ることは等価ではない。希望者が自由意志で個人情報を提供することと、それをみなに強制することは異なるはずだ。ところが、いまや、その両者の区別はかぎりなく曖昧になりつつある。それこそが問題なのだ。
この問題は犯罪防止や児童保護の事例で考えていると見えにくいが、前述の障害者の事例だと逆にはっきりしてくる。RFID技術を採用した視覚障害者の資格カードを身につけていると、自動的に図書館のゲートが開き、駅の券売機が音声案内を始める。そのようなサービスの充実は彼らの公共空間へのアクセシビリティを飛躍的に高めるが、他方、個人情報の漏洩のリスクも高めてしまう。実際に犯罪が起きないとしても、障害というデリケートな問題が扱われているだけに、情報が無線で発信されることに生理的な抵抗感を感じる人々は少なくないだろう。そのような抵抗感は、カードの安全性をいくら合理的に説明しようと決して拭い去れないし、だからこそ各人の意志としてできるだけ尊重されるべきものでもある。
では、その場合、障害者に、あえて資格カードをもたないという選択がありうるだろうか。現実にはそれは難しいだろう。上記のような自動化サービスが普及すれば、有人の窓口は逆に減っていくだろうし、また、視覚障害者は必ずカードを身につけているものだという通念も広がってしまうだろう。カードを身につけなければ、入口は開かないし、券売機は音声案内を始めないし、係員は近くにいないし、通行人に助けを求めても逆に不審がられるばかりといった環境において、障害者にどれほどの抵抗が可能かはきわめて疑問である。カードの利便性を高め、サービスの内容を拡張すればするほど、カードをもたない自由、すなわち障害情報を告知しない自由は萎んでいってしまう。
この困難は障害者だけのものではない。ひとたび個人情報の提供が公共空間へのアクセスの条件になってしまえば、「個人情報を奪われない」態度を貫くのはおそろしく難しくなる。社会生活のアーキテクチャそのものに個人情報の収集が組み込まれてしまえば、それは、法や規範に拠らなくても、強制の色彩を帯びてくるからだ。
たとえば、近い将来、顔認証の精度が飛躍的に向上し、監視カメラの映像をリアルタイムで分析して、警察から提供されたデータと照合して犯罪者を割り出すことができるようになったとしよう。そして、毎日利用している鉄道や勤務先のビルが、防犯目的でそのシステムを導入したとする。このとき、私たちに何ができるだろうか。
私たちの顔は、毎日毎日、タイムスタンプ付きでデータ化される。それが気持ち悪いと感じたとしても、電車に乗らない、ビルに入らない、という選択肢が現実的ではない以上、できるのは鉄道会社やビル管理会社に抗議するぐらいのことである。個人情報を奪われない権利は、かくも形骸化しつつある。
匿名のまま公共空間に
アクセスする権利 プライバシーに敏感な運動家のなかには、クレジットカードを使わず、携帯電話ももたず、自動改札機も通らないという強硬派もいる。本論のような議論を展開しているとしばしば誤解されるのだが、筆者にはそのタイプのこだわりはない。筆者個人は、むしろ、個人情報の流出にはルーズなほうである。携帯電話もSuicaも便利に使っているし、IPアドレスを隠すためにプロクシ・サーバを通したこともほとんどない。監視カメラの遍在は多少気になるが、設置反対の運動を起こすほどでもない。つまりは、筆者の生活は、一般の読者のみなさんとほとんど変わりがない。
しかし、筆者は、そのような個人的な感覚とは関係なく、彼ら強硬派の生きかたは尊重されるべきだと考える。ある個人が個人として「ネットワーク社会ではあるていど個人情報を奪われてもしかたがない」と考えることと、「だからこの社会で個人情報の管理を叫ぶやつらは異常だ」と主張することはまったく異なっている。逆に、プライバシー擁護派のほうにしても、彼らが個人として「個人情報を奪われるのは我慢ならん」と感じるのは自由だが、それを一般化して「だからみな管理社会に抗して立ち上がるべきだ」と主張するのも飛躍がありすぎる。これは当たり前の話だが、住基ネットの稼働から個人情報保護法の成立まで、この一年の議論では、しばしばその両者が混同されてきたように思われてならない。
ではどうするべきか。私たちが目指すべきは、個人情報の収集が善か悪かといった神学論争を突き詰めることではなく、それを善だと考えるひとも悪だと感じるひとも、ともに安心して生活できるようなインフラを整えることではないだろうか。
その観点からすると、電子政府だユビキタスだと浮き足立っている現状の議論が、システムを能動的に使いこなし、個人情報の提供をリスクとして引き受けることのできる「強いユーザー」の側に偏っていることは明らかである。今後は、個人情報の提供に同意しない(できない)市民に対しても公共空間へのアクセスが確保されるように、行政や公共サービスのネットワークへの依存に一定の歯止めをかけていく必要がでてくるはずだ。そして、その根拠として筆者が提案したいのが、「ネットワークに接続されない権利」、「個人情報を奪われない権利」、すなわち、匿名のまま公共空間にアクセスする権利という新しい考えかたなのである(注2)。
むろん、その権利の強さや適用範囲は、個々の事例で判断するほかないし、そこでもまた論争は生じるだろう。しかし、ここで重要なのは、まずその権利の存在を認知することである。
たとえば、防犯の重要性を考えれば、治安の悪い繁華街や閉鎖的な駅構内にカメラが設置されるのはやむをえないかもしれない。しかし、通学路や商店街のような開放的な生活空間の場合は別途に議論されてよいし、少なくとも、どのていどの危険があればカメラの導入が正当化されるのか、明確な基準が示されるべきだろう。同じことは、ETCやSuicaのようなサービスについても言える。それらは一部の人々の利便性を高めるが、他方では、プライバシー侵害への漠たる不安を多くの利用者に与えることになる。だとすれば、それらのサービスを拒否しても道路や鉄道へのアクセスに障害を感じないように、あるていどの迂回路を用意しておくことが必要なのではないか。
私たちの社会は、官民を問わず、いま、あらゆる場面で、不特定の大衆から一方的に情報を収集し、そのひとりひとりの動きを特定し、履歴をデータ化するシステムを拡大しつつある。本論の言葉で言えば、「受動的な顕名性」を強いる社会に変わりつつある。セキュリティの確保やサービスの充実という観点からすれば、その変化にはやむをえないところがある。しかし、その動きが私たちの「匿名性」という基礎的な権利を脅かすことが広く自覚されれば、また別の視点も生まれてくるのではないか。むろん、あらゆる私権と同じく、匿名性の権利もまた公益とのバランスで制限されるにはちがいない。しかし、いまは、そのバランスが議論されていないのだ。
プライバシーの権利を個人情報の能動的な管理権として捉えると、現代社会ではさまざまな矛盾が出てくる。他人によって奪われ、すでに流通している情報に永遠に所有権を主張し続けることになるからだ(注3)。それに対して、匿名性の権利はより慎ましやかなものである。自己情報管理権は、ネットワークに侵入し、そこで「私が何者として記されているか」を調査し、確認し、必要とあらば修正を迫る強い権利である。対照的に、匿名性の権利は、あらゆるネットワークから切断され、何者としても記されないことを望む弱い権利だ。だからこそ、その侵害は、私たちの生のありかたを奥深くから変えてしまうように思えてならない。
社会的なオーケストレーション
同じ問題をまた別の角度から検討しておきたい。
第八回でも触れたカナダの社会学者、デイヴィッド・ライアンは、現代社会における「監視」に明確な定義を与えている。彼によれば、監視とは、「個人の身元を特定しうるかどうかはともかく、データが集められる当該人物に影響を与え、その行動を統御することを目的として、個人データを収集・処理するすべての行為」のことであり、いまでは「社会的な秩序編成=オーケストレーションの中心手段」として必要不可欠な役割を果たしている(注4)。現代社会に遍在する電子的監視は、権力者が市民を一方的に抑圧し、支配しているような古い権力モデルでは捉えられない。それはむしろ、多様化し複雑になったポストモダン社会を安定させるため、あらゆる場所から情報を収集し、徹底した「リスク管理」を行っている非人称的な巨大なシステムとして理解すべきである。
あらためて確認するまでもなく、本論もまた、同じ枠組みでネットワークやコンピュータの役割を捉えている。ライアンが「監視」と呼んだものを、私たちは「環境管理」と呼んできた。監視=環境管理の巨大なシステムは、現代社会が失った「大きな物語」を技術的に埋め合わす役割を果たしている。
しかし、ここで注意してほしいのは、そのシステムが、社会の統合を促すと同時に、また分割を強化する役割も果たすということである。徹底したリスク管理が行われる、ということは、すなわち、各人の社会的・経済的・身体的条件に応じてアクセス可能なサービスに差異が出るように、徹底したプロファイリングが行われるということでもある。ここまで繰り返してきたように、その動きは、電子商取引サイトのカスタマイズから公共空間の「ゲイテッド・コミュニティ」化まで、すでにあらゆる局面で進んでいる。「オーケストレーション」というライアンの言葉は、統合するとともに分割する、というこの両義性をよく捉えている。
オーケストラの指揮者は、ただ単純に音を合わせるだけではない。指揮者は、弦楽器や管楽器など、パートごと、演奏者ごとに、それぞれの特性に合った音が奏でられるように全体を巧みに調整する役割を果たす。オーケストラにおいては、バイオリニストがクラリネットのパートに侵入したり、演奏者が勝手に楽器を交換するようなことがあってはならない。同じように、現代社会においては、私があなたと同じサービスを受けるわけにはいかないし、私があなたになりすますことも許されない。ポストモダンの多様性は、統合されるが融合されるのではない。むしろ、その生活空間(小さな物語)は、固定され限定される傾向にあるわけだ。
公共性と匿名性
ところで、このような傾向は、従来議論されてきた「公共性」の文脈ではきわめて危機的な事態だと言える。
ふたたびアーレントの『人間の条件』を見てみよう。前二回では強調しなかったが、この著作は公共性の危機を主題としている。二十世紀の大衆消費社会においては、人間の行為は「労働」に覆い尽くされ、「活動」の領域はますます狭まっている。これがアーレントの認識だったが、それは、言い換えれば、現代の社会生活においては、私的で趣味的で身体的な領域がますます拡大し(労働=消費とは動物的な欲求に支配された行動様式にほかならない)、公共的で政治的で言説的な領域が萎みつつあるということでもある。アーレントは、この事態に対して強い危機感を感じ、「活動」「政治」「公共性」の回復を訴えるために『人間の条件』を書き記した。
では、そこで想定された公共性の条件とは、はたしていかなるものだっただろうか。政治学者の齋藤純一は興味深い指摘を行っている(注5)。
第一〇回でも触れたが、アーレントは、公共性の条件を「現れ」という言葉で特徴づけていた。公共空間においては、人々はたがいに固有名をもった他者として「現れる」。これは、普通には、私が私として、あなたがあなたとして、たがいに実名を曝してコミュニケーションを行う状態のことだと理解できる。労働=消費の場ではひとは無名の交換可能な存在(労働力)でしかないが、活動の場ではひとは交換不可能な存在として尊重される。
しかし、齋藤の整理はもう少し踏み込んでいる。そもそも、労働=消費の場でひとが交換可能な存在になってしまうのはなぜか。それは、労働力=消費者としての人間は、基本的に、社会的地位や能力や経済力といった属性で判断されるからである。齋藤はそのような情報交換が行われる場を「表象の空間」と呼び、公共空間、すなわち「現れの空間」から区別している。
表象の空間は、通常の社会生活の場であり、それはときに、障害者や老人や同性愛者などの表象(レッテル)を介することで、暴力や差別の場に変貌する。それに対して、公共空間は、「他の一切の条件にかかわりなく、他者を自由な存在者として処遇する空間」であり、「他者に対する完全な予期をあきらめること」で可能になる特殊な場として考えられねばならない(注6)。この定義は抽象的に響くかもしれないが、日本語の「まつりごと」と「祭り」の関係に窺えるように、共同体的な階層構造を無化する場は、一般に公共性の観念と深く結びついている。公共空間では、ひとは、自らを枠づけるもろもろの属性を脱ぎ捨て、何ものでもない存在として参入するからこそ、逆に固有の存在として「現れる」ことができる。
このように考えを進めると、アーレントの一般的な読みとは異なるが、公共空間とはむしろ匿名性が大きな役割を果たす場である、という結論が導かれてくる。労働=消費の場が匿名で、公共空間が顕名、という単純な対立があるわけではないのだ。前者では固有名は意識されないが、かわりに属性=個人情報は把握されている。後者では固有名は認知されているが、それはいかなる属性=個人情報にも結びつけられていない。この複雑な関係を理解しなければ、公共性の哲学は構想できない。
そして、このような議論に照らしたとき、私たちの社会が抱えつつある問題は明らかである。ユビキタス社会の夢は、「他者に対する完全な予期をあきらめること」の対極にある。公共空間が「ゲイテッド・コミュニティ」化するとは、現れの空間が表象の空間に還元されていくことにほかならない。
さらに、いま、このような変化を、「セキュリティ」への強い欲求が後押ししているのも決して偶然ではない。第四回でも簡単に触れたように、この言葉は、語源的には、単なる身体的な安全ではなく、世界に対して配慮(ケア)する必要がない精神状態、つまり、何も考えずに安楽に生活できる状態を意味している。生理的な必然性に支配される労働の領域と、人間的な自由が生まれる活動の領域を峻別したアーレントにしたがえば、その安楽さは明らかに前者に属している。セキュリティを高めるとは、労働=消費の循環を安定させることを第一義としている。したがって、それは、「他者を自由な存在者として処遇する」ような予測不可能なコミュニケーションを、ハイリスクなノイズとしてできるだけ排除することに繋がっていくのである。
確かに、本格的な情報社会の到来は、コミュニケーションの量を飛躍的に増加させたかもしれない。私たちは、いまや、ラインゴールドの言う「スマートな大衆」として、たがいが必要とする情報を直接に瞬時に交換しあい、従来の意志決定システムに風穴を空けつつあるのかもしれない。しかし、それらすべては、ネットワークが安全に管理されることを前提としている。そのような場が整備されればされるだけ、逆に、参加者のプロフィールが隠され、「他者に対する完全な予期をあきらめる」ことで成立するハイリスクなコミュニケーション空間は許容されなくなるだろう。それは、私たちの社会が、本質的な意味で公共性を喪いつつあることを意味している。
第三の自由
サイファーパンクの中心人物、ティモシー・メイは、「言論の自由という基本的な権利は、隣人や施政者たちにとって理解不可能な言語で話す権利、すなわち、暗号化された言論の権利なのだ」と書き記している(注7)。筆者はかつて、この文章を読んだとき、カントの言葉を思い出した。カントは、ある論文で、思考の自由は、「思考を公共的に伝える自由」から切り離せないと述べている(注8)。
この二つの発想は、表面的には、まったく対照的なものに思える。メイが、言論の自由を伝達されない自由として捉えているのに対し、カントは、その自由は他者への伝達可能性なしにはありえないと考えているからだ。
しかし、その両者は、本当はそれほど遠くないのかもしれない。もし前述のように、公共空間が匿名性の空間として構想されるのならば、公共的なコミュニケーションを行うことは匿名性を引き受けることを意味する。それは、具体的には、発信者がどのような人物で、受信者がどのような人物で、どのようなコンテクストで発信されたものなのか、まったく知られないまま(現代風に言い換えれば、いわばメタデータが消去された状態で)メッセージだけが公開され、配信され、ときに大きく誤解されてしまうようなコミュニケーション上のリスクを受け入れるということである。
実際、カントが生きていた二〇〇年前の世界においては、報道や出版が作り出す公共空間はそのようなリスクに満ちたものだったにちがいない。ケーニヒスベルクのカントが、実際にはどのような人物で、何を考えているのか、パリやロンドンにはほとんど情報が入ってこなかったはずだ。逆に、だからこそ、そこには普遍的な思考の萌芽が宿っていたのである。
私たちの社会はこの条件を大きく変えつつある。二十一世紀の公共空間は、仮想的であろうと物理的であろうと、すみずみまで個人情報の収集と分析で満たされ、その網から逃れるのは容易ではない。カントにおいては、公共圏のネットワークへ接続することは、共同体的な拘束から逃れ、属性情報から離れた匿名で固有の存在へと変わり、自由への階段を上ることを意味した。しかし、いまや、公共圏のネットワークへ接続することは、共同体的な拘束を強化し、プロファイリングを施され、匿名性と固有性をともに失うことを意味し始めている。カントとメイのあいだでは、接続する=伝達されることの含意が逆転しているのだ。
自由の感覚は、本性的に、匿名でありうることと深く結びついている。第六回で紹介したように、自由の源泉は、伝統的に、消極的自由と積極的自由の二つに分けて考えられてきた。しかし、おそらくは、そこにはもうひとつの源泉があるのだ。選択肢の多様さ(消極的自由)でも、その選択を支える自己支配の感覚(積極的自由)でもなく、そもそもそのような選択を行わなくてもよいのだという直観、厄介な選択を自分に強いるすべての状況をリセットし、無名で匿名な存在に戻りたいという原初的な希求の感覚があって、それこそが、私たちがいま近づきつつある第三の自由=匿名性の自由の観念を支えているのである。
しかし、この問題にさらに踏み込むのは、筆者のいまの力量を超えるし、本論の主題からも外れることになるだろう(注9)。ここでは、とりあえず、いま構想されねばならない新たな「自由」とは、ネットワークをますます緻密にしてユーザーの選択肢を増やすこと(消極的自由)でも、セキュリティとプライバシーに配慮して自己情報管理権を強化すること(積極的自由)でもなく、ネットワークから離脱し、属性情報の提供を拒否し、匿名に生きたいと願う人々の生活権をどこまで保証するのか、その寛容さに関わっているのだとだけ述べて、議論を締めくくりたい。
注
(現在準備中)