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情報自由論第2回

工学と政治が短絡してしまう世界

著者:東浩紀
初出:『中央公論』2002年8月号、中央公論新社


筆者は前回、現代社会を動かす情報化とセキュリティ化という二つの大きな波が、いま交差して「新しい権力の場所」を生み出しつつあると述べた。しかし、その権力の場所について語るのは意外と難しい。事実、通信傍受法の施行や住民基本台帳ネットワーク(住基ネット)の稼働、個人情報保護法案の提出など、このところ急速に進んでいる政治的環境の変化に対して、いまのマスコミは一種の失語状態に陥っているようにも見える。そしてその理由はふたつある。

遍在するリトル・ブラザー

理由の第一は、そこで立ち上がりつつある新たな権力が「遍在化」「分散化」し、国家対市民という図式では批判できないということである。情報化=セキュリティ化時代の権力は、国家という能動的な存在が市民という受動的な存在を監視し抑圧する、という単純な枠組みで捉えることができない。むしろそこで必要とされるのは、国家と市民、政府と民間企業、公的領域と私的領域の差異が溶解した空間のなかで、万人が万人を監視し、情報を収集しあうような新たな枠組みである。

誤解を避けるため強調しておくが、米国のカーニボーや日本のNシステムをはじめ、さまざまな情報技術が国家による市民監視のため利用されていること、これは事実である。そしてそのなかには、前回も強調したように、国家権力の暴走を許し、法治主義の原則を揺るがしかねない危険な事例が含まれている。したがって、従来と同じく、今後も行政への批判的な視線は必要となる。これは当然のことだ。

しかし、そのうえで注意せねばならないのは、その同じ技術がいまや民間企業や個人にも利用可能だということである。カーニボーと同じ原理で働くパケット通信解析ツール「スニッファ」はウェブ上に大量に出回っているし、Nシステムを構成する暗視装置や画像解析ソフトなども、基本性能は民生品と大して変わらないと言われている。社内LANを流れるメールを傍受し、来店する車のナンバーを自動撮影し解析するようなシステムは、市販製品の組み合わせで簡単に作れてしまう。国家だけが特別な技術を持っているわけではない。

そこまで行かなくても、情報化と消費社会化が進んだ現代社会において、個人情報を合法的に集める方法は無数にある。たとえば、レンタルビデオ店の利用履歴やクレジットカードの購買履歴は、顧客の趣味嗜好を反映した貴重な情報であり、実際に商取引の対象になっている。その莫大なデータは目的別に整理され、名簿業者を介して、多くの企業に利用されている。そして、このような個人情報の転用に対して、現在のところ有効な法的規制はない注1

インターネットもまた個人情報の宝庫である。友人の日記サイトには、あなたの今日の行動が克明に記録されているかもしれない。あなたがかつて入会し、のち脱退した団体のサイトには、当時の名簿が変わらず掲示されているかもしれない。匿名掲示板には、悪意ある知人の手であなたの写真や住所が無断で曝されているかもしれない。これらすべての情報が、あなたの名前で検索すれば瞬時に名寄せされ、簡単な身上調書(データ・プロファイル)を作り上げてしまう。

合法と非合法とを問わず、そのようにして集められた情報は、さまざまな資格審査を介して私たちの生活に大きな影響を及ぼしている。実際、その情報が間違っていれば深刻な悲劇も生まれる。誤った信用情報が流通すればクレジットカードの更新を拒否されるかもしれないし、誤った医療情報が流通すれば人事に影響するかもしれない。現代社会においては、市民生活の範囲を縁取る力という点で、国家と同じか、あるいはそれ以上に、民間企業や個人の情報収集が大きな役割を果たしている。

情報化社会とは、要は、できるだけ多くの個人情報を収集し、解析し、サービスを充実させる社会のことである。携帯電話を持ち歩き、自動改札を通り、高速道路の料金所を通過し、ATMで現金を引き出し、レンタルビデオを利用し、繁華街のカメラの下を歩き、インターネットをブラウズすれば、そのたびに個人情報の断片が産み落とされる。法学者のアラン・ウェスティンは、すでに三〇年前、このような断片を「データ・シャドウ」と名づけ、その管理の難しさを指摘している注2。この点で官の危険、民の危険のあいだに本質的差異はない。実際、米国の社会保障番号は信用調査機関や保険業者によって幅広く利用されているし、前回も記したように、日本の住基ネットも民間企業による利用が構想されている。

この数年、日本に限らず、先進諸国では、情報技術に関する法的規制が急速に整備され始めている。にもかかわらず、それを国家権力の横暴として単純に批判することが難しいのは、以上のような事情があるからだ。住基ネットも怖いが、エステサロンやメーカーのアンケートに答えるのも怖い注3。個人情報の盗用者には愉快犯が多いだろうが、なかには悪質な業者やストーカーもいるかもしれない。ジャーナリストのシムソン・ガーフィンケルや作家のニール・スティーヴンスンが指摘するように、未来の監視社会は、おそらくオーウェルが描いたような単純な世界にはならない注4。私たちの前に姿を現しつつあるのは、単一の「ビッグ・ブラザー」ではなく、無数の「リトル・ブラザー」たちが市民生活をたえず監視し、必要に応じて介入してくるような、より複雑で厄介な世界なのだ。

規制を求める自由

国家による集中型の市民監視ではなく、国家と市民の境界が溶解した空間で働く、さまざまなエージェントによる分散型の相互監視。このような状況の到来を前に、一部の専門家のあいだでは、逆に行政の役割に期待する声も挙がっている。ガーフィンケルは二〇〇〇年の著作『データベース国家』で「二十一世紀は連邦政府こそがプライバシー保護の最大の砦になる」と断言しているし、法学者のローレンス・レッシグも、九九年の著作『CODE』で、ネットワーク上の自由を守るためには、市場の論理から離れた法的規制が必要だと主張している注5

ここで注意してほしいのは、彼らのその主張が、インターネットという新しいメディアの出現を前に出てきた感情的な規制強化論ではないということだ。ガーフィンケルもレッシグも、ネットワークの技術的側面に詳しく、かつ市民的自由の擁護に大きな役割を果たしてきた人物である。彼らは、基本的には「サイバースペース独立宣言」と精神を共有している。

しかし、情報技術が可能にした新たな自由は、また同時に、他人を監視する自由であり、他人の自由を脅かす自由でもある。そして実際に、市場の論理は、ネットワークに関わる企業や個人を無際限の情報収集に誘ってしまう。したがって、それらリトル・ブラザーの専横を阻み、自由とプライバシーを守るためにこそ、サイバースペースは外部からの介入を必要とする。これが彼らの主張だ。行政の規制とサイバースペースの自由を対立させる単純な図式は、すでに説得力を失っている。かわりに現れているのは、情報技術が毒にもなり薬にもなるという両義性を見据えたうえで、これまた毒でもあり薬でもある「国家」をぶつけることで毒の部分だけを中和しようとでもするような、きわめて入り組んだ戦略である。

監視を望む市民

他方、行政の介入に期待する声は、より素朴な市民感情とも結びついている。前回も記したように、ポストモダン化と不透明化が進むなかで、現代社会では、いつだれが自分の生活を脅かしてくるかもしれない、しかもその危険人物は自分のすぐ傍に潜んでいるかもしれない、という不安感が広く蔓延している。したがって、その不安感を和らげてくれるのならば、自らの生活が監視され、あるていど自由やプライバシーを奪われるのも仕方ないと考える市民が増えている。

ネットワークの話ではないが、日本では、今年に入って設置され始めた街頭監視カメラへの反応が分かりやすい例になるだろう。警視庁は現在、歌舞伎町に続き、都内の住宅街でも「スーパー防犯灯」の設置を進めている注6。「スーパー防犯灯」とは、街路灯の外見を装った二四時間撮影の監視カメラのことである。市民の私的な生活が営まれる街路でそのような監視を行うことは、常識的に考えてプライバシーの侵害にあたる可能性が高い。にもかかわらず、新聞報道を読むかぎり、住民のあいだにそのような権利侵害の意識はほとんど見られない。むしろ最近では、地元の自治会や商店街が自主的にカメラを設置する例が相次いでいるらしく、警視庁の試みもそのような「住民側の要望」を根拠にしている注7

国家による監視へのこの鈍感さは、決して日本だけの傾向ではない。英国ではすでに一〇〇万台以上の街頭監視カメラが稼働し、日常的に市民生活を記録している。9・11以降の米国では、前回も紹介したように、ネットワーク上の通信の傍受が裁判所命令なしで認められている。安全確保のために自由やプライバシーを譲り渡すのは、いまの先進国市民に共通する選択なのである。セキュリティ化の波は、国家による市民管理を正当化するとともに、まず市民自身の志向を変えている。この傾向の危険性については、のちにあらためて検討したい。

以上のように、情報技術と権力が結びつく局面においては、一方では情報技術の本来の可能性を守ろうとする専門家の危機意識によって、他方では高まるセキュリティ意識を背景とした市民感情によって、それぞれ別に行政による介入が望まれ始めている。両者の動機は対照的だが、それらはともに、情報技術の両義性から生まれた表裏一体の反応だと見ることもできる。このような点においても、情報化=セキュリティ化時代の権力は、国家対市民、抑圧者対被抑圧者という枠組みに収まりきらない。

通信傍受の質的な変容

理由の第二は、問題の権力の性質が、技術的な知識、それも九〇年代の情報技術革命を通過した新たな知識に大きく依存しており、一般市民にその正体が捉えにくいということである。事実、この四月のみずほ銀行システム障害事件や、このところ相次いで報道されている個人情報の漏洩問題など、技術管理の適否が私たちの生活に大きな影響を与えることは分かっても、具体的な議論についていけず歯がゆい思いをしている読者が多いことだろう。ただしそこで問われているのは、実際には、知識の多寡ではなく、想像力の質だと言うこともできる。

たとえば九九年に可決された通信傍受法を考えてみよう。この法律は「盗聴法」とも呼ばれ、当時言論人やマスコミを中心に大きな反対を呼び起こした。筆者もまたその一角を汚していたが、そこで登場した議論の多くは、傍受の具体例として固定電話の盗聴、たとえば八六年の「緒方事件」を挙げていたと記憶している。

しかし、それから三年後のいま、将来の傍受の柱として想定されているのは、携帯電話やメールのような新しい通信メディアの傍受である。実際に警察庁は「通信事業者貸与用仮メールボックス」と呼ばれるメール傍受システムを導入しているし注8、また、昨年十一月に日本も署名したサイバー犯罪条約では、コンピュータ関連犯罪を対象としてさらに強力かつ包括的な傍受体制の整備が求められている。通信傍受と聞いて、電話局に待機する捜査員がヘッドホンを片手に通話内容に耳を傾ける姿を想像するのは、もはや時代遅れになりつつある。未来の通信傍受は、ネットワーク上を流れる膨大なデータの解析作業になるのだ。

そしてこの両者のあいだには、同じ「傍受」という言葉で呼ぶのが躊躇われるほどの質的な差異がある。別の機会にも指摘したことだが注9、分かりやすい例なのでここでも繰り返しておきたい。通信傍受法の第十二条には「立会人」の規定がある。立会人は捜査員による傍受に立ち会い、「検察官又は司法警察員に対し、当該傍受の実施に関し意見を述べることができる」とされている。この規定は傍受捜査の逸脱を防ぐために導入されたものが、国会審議のあいだには、立会人に傍受内容の聴取を認め、さらに強力な「切断権」(傍受捜査を打ち切る権利)を与えるべきだとの意見も現れた。この議論は当時のマスコミをそれなりに賑わしていたが、実はデジタルデータの傍受においては、立会人や切断権の概念そのものが意味をなさない。それらの概念は、捜査員が通話を聴き、その場で傍受の適不適を判断し、それを立会人が監視する、という従来の盗聴風景を前提としているからだ。

「工学政治的」な想像力

メールの遣り取りは特定の電話線を占有するわけではない。インターネットで行われる通信は、すべて、「パケット」と呼ばれる断片になってネットワークに放たれ、利用者の手元のコンピュータで再構成されてはじめて意味あるメッセージになるように設計されている。したがってそこでは、メールサーバと傍受装置の接続など、通信業者の協力を得て行われるデータの複製作業そのものは傍受の中心にならない。捜査の成否は、むしろ、そこで収集されたデータからいかにして捜査対象の通信だけを選び出すのか、その解析作業に掛かっている。裏返せば、その解析作業に制限を掛けなければ、有効な抑止力にはならない。たとえば、捜査と無関係なメールが抽出され、不必要に複製される事態を防ぐことはできない。

ではその制限として何が求められるのかと言えば、そもそもメールという便利なシステムがいかにして成立しているのか、その前提を押さえたうえでの専門知識が必要になる。捜査員のそばに立会人を立たせておけ、という簡単な話にはならない。そしてこの点で、法務省の国会答弁や「仮メールボックス」の仕様などには多くの問題があることが、すでに専門家のあいだでは指摘されている。たとえば、デジタルデータの性質上、傍受されたメールはアナログ通話の録音よりはるかに改竄が容易だが、公開された仕様書ではその点の配慮がほとんどなされていない注10

現行の通信傍受法は、固定電話のような古い情報技術を前提として立法されており、新しい情報技術の管理に大きな欠陥を抱えている。この点はいまからでも正すべきだが、しかしここで反省すべきは、この法律が国会で審議されていた三年前、多くの市民がインターネットやメールについて詳しい知識を持っていなかったことではない。市民全員がエンジニアになるわけにはいかない以上、そのような知識不足は今後も避けられない。むしろ問題なのは、そのような技術面の検討がこの法案の審議に際して必要となるという、その前提が共有されていなかったことである。

九九年の時点ではインターネットやメールはすでに広く普及しており、将来の通信手段の中核を担うものだと見なされていた。にもかかわらず、通信傍受法の検討に際しては、反対意見を含め、マスコミの議論の多くが旧態依然とした「盗聴」のイメージに頼ってしまった。これは知識の問題というより、むしろ想像力の問題である。

そしてその状況はいまも変わっていない。通信傍受法にしてもいま話題の個人情報保護法案にしても、インターネットの将来に大きな影響を及ぼす立法であり、実際にその観点からの不備の指摘が専門家から相次いでいる。にもかかわらず、そのような技術的な議論は、読者の理解力を「配慮」しているからなのか、いまのマスコミではあまり活字にならない。社会学者の宮台真司は、最近の評論で、このような状況を「マスコミとインターネットの分断統治」と呼んでいる注11

情報技術と密接に結びついた新しい権力は、従来の政治的な発想では捉えられない動きをする。その分析や制限には専門知識が必要になるが、そこまでは望めないとしても、今後エンジニアの一見「非政治的」な成果、たとえば画像認識ソフトウェアの改良や記録メディアの大容量化などがそのまま監視装置の高性能化や住基ネットの拡大を意味してしまうという事態には、十分な注意を払っておく必要があるだろう。工学(エンジニアリング)と政治のこの結びつきへの想像力、いわば「工学政治的」な想像力を欠いた視点では、情報化=セキュリティ化時代の権力は捉えられないのだ。

機械が機械を監視する時代

以上のように、本論が検討する「新しい権力」は、万人が万人を監視し、情報を収集しあい、しかもその監視=管理の実効力が技術的可能性に依存する社会空間から立ち上がっている。情報化とセキュリティ化はこの場所で交差し、エンジニアの思惑と安全を求める市民感情を巻き込んで、従来とは異なったタイプの監視=管理体制を生み出しつつある。次回はその交差について少し抽象的で思想的な観点から検討を加えたいと思うが、ここで最後に、もうひとつだけ、その「新しい権力の場所」の厄介な性質を示す事例を挙げておきたい。

日本の警察庁は、現在、インターネット上の児童ポルノを自動検索し摘発するソフトウェアを開発中だと伝えられている注12。ウェブ上で日々更新され、削除され、また復活するポルノ系サイトの数を考えればこのような自動化は必然だが、この報道を聞いて筆者がまず思い出したのは、昨年登場し、一部で話題になった興味深いワームのことだ。「ノーペド」という名のそのワームは、感染したコンピュータの内部を走査し、児童ポルノと疑わしいファイルを発見すると、関連する行政機関に通知する機能を持っていた注13

最初に述べたように、いまや国家だけが特別な監視技術を持っているわけではない。とりわけネットワークにおいては、リナックスの例に見られるように、専門の技術者よりも若い学生や無職のハッカーのほうが高度で独創的な業績を挙げることが少なくない。したがって、児童ポルノに限らず、合法的な規制強化や民主的な手続きの迂遠さに苛立つハッカーが、一種の義賊的精神からこのようなコード(プログラム)をばらまくことは今後も十分に考えられる。ノーペドの性能はそれほど高くないらしいが、もし画像判定の精度が十分で、かつ感染力も強いものならば、世界中の児童性愛者にとってこのワームは大きな脅威になったことだろう。ここではもはや、政府による合法的監視と民間による非合法な監視の境界が曖昧になってしまっている。実際に同じ年の秋には、FBIがパスワード傍受用の特殊なウイルスを開発中との噂が流れていた注14

ネットワーク上にばらまかれた一連のコードが、いつのまにかあなたのコンピュータに侵入し、個人的なファイルを走査して違法行為の有無を判断する。このような監視の可能性は、私たちがいままで抱いてきた「監視」や「管理」のイメージからずいぶんと離れている。自宅に座り、自分専用のコンピュータでキーボードを叩いていても、隠れたプログラムがそのキー入力を盗み、どこかのサーバに逐一伝えているかもしれない。同じく自分専用の携帯電話で友人と話していても、通話終了後に隠れたプログラムが起動し、通話履歴や電話帳データをどこかに転送してしまうかもしれない。そして私たち自身は、コンピュータや携帯電話の中身を覗かないかぎり、そのことに決して気がつかない。改良版のノーペドがあなたのコンピュータを走査していたとしても、児童ポルノ画像を持っていないのならば何も気にすることはないし、実際気にならない。

レッシグは前掲書で、このようなワームが犯罪捜査に用いられたとして、それが合衆国憲法に違反するかどうか、詳細な検討を加えている。彼の結論は、それは「修正第四条がなにを守るかというあなたの考え次第」だというものである注15。というのも、ここで登場している新しい監視あるいはプライバシーの侵害は、監視を受ける個人にほとんど負担をかけない、つまり、遵法精神に則ったかぎりでの自由な生活をほとんど侵害しないからだ。合衆国憲法はこのような事態を想定していない、というのがレッシグの解釈である。

私たちの社会は、機械と機械が自動的に接続し、データを交換し、処理しては応答しあうネットワークによって急速に覆われつつある。私たちはもはや、携帯電話にしろクレジットカードにしろ磁気情報の入った社員証にしろ、何らかの情報処理装置の助けなしには社会生活を送れなくなりつつある。したがってそこでは、あなたの機械を監視すること、あなたの機械が持つ情報を盗むことが、そのまま、あなたの生活を管理すること、あなたのプライバシーを侵害することに繋がってしまう。人間の領域と機械の領域、政治の領域と工学の領域が連続的に推移するこの世界において、「機械が機械を監視すること」、たとえばノーペドが個人用のコンピュータを監視することの危険を、どのような法的言語で縁取ればよいのか。レッシグが示唆するように、そのときに参照可能な知的資産を、私たちは実はほとんど持っていない。


(現在準備中)