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情報自由論第7回

自由と交換される匿名性

著者:東浩紀
初出:『中央公論』2003年1月号、中央公論新社


私たちは、ポストモダン化が進み、規律訓練型権力が弱体化した社会に生きている。それは言い換えれば、中心的な規範や価値観の存在が信じられなくなった社会である。結果として、いまの消費者は、消費財の選択から犯罪防止や医療行為にいたるまで、大量の情報を考慮したうえで、さまざまな判断を自己責任で下す必要に迫られている。しかし、このような状況は、実際には、自由の感覚を拡大するどころか、むしろ人々を麻痺状態に陥らせるものである。このため現代社会では、消極的自由(選択肢の数)の飽和と積極的自由(動機付け)の消失がともに進行している。大澤真幸は、この逆説を、「あまりにも完全な消極的自由は、自由の反対物に変じてしまう」と表現した。

そのうえで前回指摘したのは、積極的自由のその空洞化が、いま情報技術への過剰な依存によって補われつつあるという事態である。あまりに多くの選択肢を前にし、合理的な選択が困難になってしまうと、ひとはだれかがその選択を肩代わりしてくれることを望む。その「だれか」は、かつては全体主義者として社会的に供給された。それがいまや、ユーザごとにカスタマイズされ、選択肢をあらかじめ絞り込んでくれるフィルタリングのシステムとして、技術的に供給され始めている。この現象は「自由からの逃走」の新たな形態として捉えられる。

ハッカーたちが説いたように、新たな情報技術は確かに私たちの自由を拡大した。しかしそれは、同時に、多くの人々に、積極的自由の困難に背を向け、主体的判断を棚上げにするための格好のアイテムを与えることにもなっている。セキュリティという言葉が、語源的には「配慮がないこと」を意味していたことを思い起こされたい。現代社会はあまりにも複雑な「配慮」を求めている。クレジットカードの番号を通知するのはどこまで許すべきなのか、遺伝子組み換え食品はどれくらい安全なのか、延命治療はどこまで認められるべきか、私たちはいまや、毎日のように、専門家でなければ判断できない厄介な局面に出合っている。その複雑さに困惑した市民は、できるだけ「セキュア」に、すなわち、安全に安楽に配慮なしに生活するため、強力な情報管理のなかに逃げ込もうとしているのだ。

情報化は個人の自由を拡大する、あるいは逆に情報化は管理社会を推進し自由を抑圧する、といった単純な切り口では真実は見えてこない。情報技術は自由を与えもするが、奪いもする存在なのだ。その両義性が私たちを悩ませているのである。

小売業のハイテク化

前回の議論では、レッシグの著作から言論のフィルタリングの例を借りた。しかし、ユーザの志向を考慮し、あらかじめ選択肢の幅を狭める(裏返して言えば、不必要な選択肢を排除し、見えないものにしてしまう)のがフィルタリングの本質だとすれば、そのようなシステムは決して珍しいものではない。

たとえば、米国の大手通信販売サイト、アマゾン・ドット・コムを考えてみよう。ご存知の方も多いと思うが、このサイトのトップページは、アクセスするや否や、自分のためにカスタマイズされた推薦書籍やCDのリストを表示してくれる。これは言い換えれば、同じサイトが、どのコンピュータからアクセスするかに応じてまったく異なった外見を身に纏うということでもある。

私が見るアマゾンは、あくまでも私専用のアマゾンであり、あなたが同じURLにアクセスしても同じ画面を目にすることはない。アマゾンは書籍やCDを中心に驚くほど多様な商品を扱っているが、この「パーソナライズ」サービスは、消費者が実際に目にする選択肢を飛躍的に狭めてくれる。数多くの電子商取引サイトが、この企業のように、消費者のブラウザを自動的に認識し、購買履歴を参照して特別にカスタマイズされたトップページを表示するサービスを提供している。これは一種のフィルタリングと言ってよいだろう。

フィルタリング=環境管理を利用して消費者を誘導する手法は、オンラインの世界に留まらず、いまや現実の店舗でも動き始めている。たとえば、ニューヨークに昨年開かれたプラダの新店舗では、「スマート・タグ」と呼ばれる小型チップがあらゆる商品に添付され、非接触型のスキャナを利用してきめ細かな在庫管理や顧客サービスが実現されているという。小売業のハイテク化は米国ではとくに進んでおり、監視カメラと床下の圧力センサーを組み合わせることで顧客の行動パターンを分析し、ダイレクト・マーケティングに利用する手法や、店内で交わされる会話や生理的反応を記録するシステムまで実用化されている注1。だれが、いつ、何を、どのような態度で購入したのか、できるかぎりの情報をデータベース化し、次回のサービスに活かそうとする貪欲な情報管理が進んでいる。

このような手法に対しては、言うまでもなく、消費者団体や活動家から憂慮の声が上がっている。しかしその流れは止まりそうもないし、近い将来には日本でも導入されるだろう。実際、個人的な会話でだが、あるセキュリティ企業の営業担当者から、顔認証の有望な市場として「お得意さま」の自動通知システムを考えているという話を伺ったことがある。入口のカメラが常連客の顔を認識すると、自動的に担当の店員に通知が行き、出迎えてくれるというわけだ。

小売業や流通業のこのような進化の果てに見えてくるのは、顧客が店内に足を踏み入れた瞬間、登録した身分証明が読み込まれ、個人情報や購買履歴、過去の店内での行動記録などに基づいてカスタマイズされたサービスを受けられる(あるいはサービスそのものを拒絶される)、高度に情報管理された店舗の姿である。ユビキタス・コンピューティングやバイオメトリクスの進歩は、同じ空間であっても、ユーザの状況に応じてまったく異なった環境を演出することを可能にする。常連客と一般客とでは、同じ店内でも目にする光景が微妙に異なる。クレジット・カードの有効期限が切れている人物であれば、そもそも店内には入れないかもしれない。これもまた、比喩的には、一種のフィルタリングと言えないだろうか。

資格付与カードの出現

もう少し想像力を働かせてみよう。このような観点から見ると、私たちの社会は、いまや、フィルタリング的な発想、すなわち、ユーザの状況や資格に応じた環境管理という発想に満ちていると言える。前回も述べたように、高度に情報化され、電化製品の多くがネットワークに繋がったユビキタス社会においては、適切な資格がなければ、扉も開かないし、車も動かないという環境を作り出すことは容易である。実際にこのようなシステムは、徘徊老人の管理や障害者の安全確保など、福祉の観点から実用化が進められている。

その技術はセキュリティの目的にも転用できる。たとえば、公園や市民ホールなど、公共性の高い空間にネットワークと接続されたゲートを設け、特定のカードを所持しない人物を自動的に排除することは簡単にできる。私たちはまず、自分が何者かを、環境に埋め込まれた情報装置に知らせる。情報装置はそれを受信し、私たちの資格に基づいて、適切な(と行政機関や民間企業が判断した)サービスを自動的に提供する。同じ空間が、市民の資格に応じてまったく異なった環境として立ち現れるわけだ。

本論でたびたび触れている住基ネットもまた、このような「社会のフィルタリング」を支援するインフラだと言えるだろう。第一回でも少し触れたように、住基ネットに関連しては、二〇〇三年にICカード(住基カード)の交付が予定されている。住基カードへ収められる情報は、いまは、住所、氏名、生年月日など六種類のみとされているが、実際には、総務省を中心に、行政分野から民間分野にいたる多様な機能をこのカードに集約させる構想が存在している。最近の報道によれば、商店街のポイントサービスへの利用までもが認められる予定らしい注2。住基カード一枚で何でもできる、それは裏返せば、住基カードを所持していなければ、公的私的を問わず、さまざまな不利益を蒙るということでもある。そのような包括的な資格認証システムの出現は、長期的には、私たちの社会の性格を根本から変えてしまうことだろう。

そしてこれは日本だけの動きではない。本連載のあいだにも、英国政府がIDカードの構想を発表し、野党や人権団体から強い反発を受けている。氏名、生年月日、顔写真に始まり、失業手当など公的サービスの受給記録、さらには個人認証のためのバイオメトリクス・データまで記録することが検討されているこのカードは、政府により「資格付与カード」(entitlement card)と名づけられている。

この名称には、むろん、治安強化の側面をごまかすという政治的目的が潜んでいる。にもかかわらず、その名称は、現代社会の秩序維持の特徴を意外と的確に名指しているようにも思われる。私たちの時代のIDカードは、ひとりひとりの市民に国民としての義務を押しつけ、規範からの逸脱を防止する硬直した手段ではなく、むしろ、行政と民間とを問わず、さまざまなサービスへアクセスする「資格」を付与する、柔軟で高機能な会員カードのように機能する。だからこそ、それを有効に批判し、制限するのは難しい。多様性や自由が個人情報との交換で提供される、という前述の基本原理が、ここにもはっきりと現れている。住基ネットや住基カードの問題は、電子政府化推進のために必要だとか、国民総背番号制が気持ち悪いとか、そういう短期的で感情的な視野で論じられるべきものではないのだ。

社会的な欠落を技術的に埋める

レッシグが提起したフィルタリングの問題は、原理的には、このような広範な領域に通じている。大量の情報が流通し、多様な価値観が承認されている現代社会では、私たちは、オンラインとオフラインとを問わず、一種のフィルタなしには生活できない。つまり、私たちが選択すべき、あるいは選択するだろう選択肢をあらかじめ絞り込み、積極的自由の困難を軽減してくれる装置なしには生活できない。そのフィルタは、私たち自身が選び取ることもあれば、IDカードのようにいつのまにか与えられていることもある。あるいは、ハイテク化された小売店舗で自動的に生成される顧客プロフィールのように、どちらともつかない場合もあるだろう。

このような「社会のフィルタリング」の発達は、繰り返すが、ポストモダンの本質(第三者の審級の真空状態)が要請する一種の必然である。しかし、インターネット、ユビキタス・コンピューティング、バイオメトリクスなどの新しい技術の登場によって、そのフィルタリングの精度と範囲が、従来の限界を超え、飛躍的に高められ広げられようとしている。

ここでは社会的な面と技術的な面を分けることができない。「ポストモダン化」「セキュリティ化」「リスク社会化」という専門用語で語られる社会的変化と、「情報化」という言葉で語られる技術的変化は、本論のような視点を導入すると、規律訓練型社会から環境管理型社会へという大きな流れの二つの側面のように見えてくる。第一回と第二回のサブタイトルを引用してまとめてみれば、「情報化とセキュリティ化が交差するところ」には環境管理型権力が立ち上がりつつあり、現代社会で「工学と政治が短絡してしまう」のは、そこで社会的な欠落(第三者の審級の真空状態)が技術的に埋められ始めているからなのだ。

そしてこの情報管理、すなわち情報装置への過剰な依存の流れは、決して強制されたものではない。それはまず、社会全体の秩序維持という目的からすると、規範意識や価値観の多様性を賞揚しつつ、社会を解体させないための唯一の方策であるように見える(情報管理の層と多様性の層の共存)。他方で、市民ひとりひとりの立場からしても、大きな規範が失墜するなか、積極的自由の困難を回避する唯一の道であるように思われる(自由からの逃走)。かつては自由の拡大を支援するものだと信じられていた情報技術が、いま急速に権力のインフラとして立ち上がりつつあるという矛盾は、このような時代の必然に基づいている。したがって、その流れは、権力と自由を対置するような枠組みでは、もはや有効に批判することができない。

では、この状況に対して、私たちはどのような態度を取るべきだろうか。情報管理が生活のすみずみにまで浸透し、多様性や自由が個人情報との交換でのみ保障されるような秩序維持の台頭を、私たちは歓迎して受け入れるべきだろうか。結論から言えば、筆者はそう思わない。その理由は、個人情報と交換で得られる自由には、おそらくは、かつて私たちが「自由」と呼んでいたものを暗黙裡に支えていた、重要な性質が抜け落ちているからである。

匿名性の喪失

筆者がここで考えているのは「匿名性」である。かつて、米国の倫理学者ジョン・ロールズは、人間がたがいの基本的な自由を尊重し、正義と公正を確立するためには、彼らのあいだに「無知のヴェール」が下りていなければならないと論じた注3。人間は、たがいの財産や能力について十分な情報を持たないからこそ、自分にとって不利になるかもしれない原理に同意することができる。言い換えれば、ひとはたがいに匿名的な存在であるからこそ、たがいの自由を尊重しあうことができる。

しかし、環境管理型社会の自由とは、本論でここまで論じてきたように、まさにその匿名性を放棄すること、「無知のヴェール」を自ら引き上げることで与えられるものだと言える。まず身分を明らかにせよ、そうすればこのポストモダン化され情報化された世界で存分に(あなたの資格に見合った範囲で)自由に振る舞って構わない、これが現代社会の基本原理である。個人情報の管理が重要な問題になるのは、この社会が、制度的にも技術的にも、「あなたはだれなのか」とつねに尋ね続けるシステムで動いているからなのだ。ユビキタス・コンピューティングから9・11以降のセキュリティ強化まで、その傾向は、さまざまなレベルで一貫している。

権力論に戻って考えてみよう。レッシグはゾーニングとフィルタリングを対置した。前者は法的整備を必要とするが、後者は経済的にも技術的にもアーキテクチャのなかに完全に埋め込むことができる。その結果、前者では選別の存在が意識されるが、後者では意識されない。

第三回で指摘したように、フランスの哲学者ジル・ドゥルーズは、この区別ときわめて近い問題意識を、一〇年以上前の短い論文で主題としている。インターネットの普及以前に発表されたその論考では、当然のことながら、オンラインの事例はほとんど登場しない。しかし、「エレクトロニクスのカードによって、各人が自分のマンションを離れ、自分の住んでいる通りや街区を離れることができる」が、「決まった日や決まった時間帯には、同じカードが拒絶されることもある」ような未来社会を予測し、「ここで重要なのは障壁ではなく、適法の者であろうと不法の者であろうと、とにかく各個人の位置を割り出し、普遍的な転調を行うコンピュータなのである」と述べるとき注4、ドゥルーズが、前述のような社会的フィルタリングの台頭を見通していたことはほぼ明らかだと思われる。

統計的かつ記名的な権力

ところで、そこでドゥルーズはもうひとつ興味深いことを指摘している。彼は、規律訓練型社会には「個人」と「群れ」という二つの極があったが、管理型社会ではその対立が消滅すると述べる注5。この指摘はずいぶんと謎めいているが、本論の文脈に引き付けると、まさに、権力と記名性/匿名性の関係について語ったものだと解釈できる。

フーコーの仕事によれば、近代社会では、「個人」を形成する権力と「群れ」を形成する権力は、同時に働きつつも別種のものとして存在していた。市民ひとりひとりの身体、内面、規範意識に介入する「規律訓練」と、都市計画、公衆衛生、人口調節などを通して社会全体の福利厚生を図る統計的な「管理」の権力である注6。本論ではあえて簡略化して参照しているが、フーコーは、規律訓練型社会のなかに、徐々に優勢となる環境管理型権力の萌芽を見出し、両者のダイナミックな関係を考えるような複雑な仕事を展開していた。第三回の注でも述べたように、ドゥルーズの問題意識そのものが、実はその構想を発展させるかたちで提示されている。

規律訓練型権力は記名的な「個人」の形成に関わる。幾度も強調してきたように、それはひとりひとりの内面に踏み込む権力だ。他方で、近代の萌芽的な管理型権力は、匿名的で統計的な「群れ」の統御を行う。そちらは内面には踏み込まない。それは、いわば、人間を動物のように扱う権力である。

このフーコーの図式を受け継ぎつつ、ドゥルーズが強調したのは、規律訓練の凋落と管理型権力の全面化のなかで、そのような二極性、「個人」への権力と「群れ」への権力、記名的で個別的な介入と匿名的で統計的な操作の区別そのものが消滅しつつあるという新しい事態だ。その結果として立ち現れているのは、統計的であるにもかかわらず、しかし記名的で個別的な権力、本論の言葉で言えば、情報管理の枠内でのみ多様性や自由を許容する権力である。現代の管理は、整備された情報環境と巨大なデータベースに基づき、だれがいつ何をすべきなのか、統計的な手法に基づきながらも、こと細かく個別的に介入してくる。アマゾンの例を思い起こされたい。

ゾーニングの権力は障壁で分割する。つまり、ひとつの地理的な空間を、階級や人種や職種など、さまざまな条件に応じて異なったいくつかの領域に分割する。それは「群れ」を作り、人々を制御する権力だ。対してフィルタリングの権力は、ひとりひとりの「個人情報」に基づいて、同じ社会空間をまったく異なった環境に変えてしまう。構成員はみな同じ場所で生活しているが、利用可能な公共財やサービスはそれぞれ大きく異なる。個人は個人のまま、統計的に制御される。環境管理型社会は、そういう多層的で柔軟な構造をもっている。

同じ特徴はメディアの質的な変化としても捉えられるだろう。ラジオやテレビの視聴者は「群れ」を形成している。彼らは匿名的であり、集団的にしか把握されない。だれがいつどの番組を見たのか、その情報は「無知のヴェール」に覆われている。しかしインターネットのユーザは群れを形成しない。いくら数が多く、画一的であったとしても、彼らはみな特定のIPアドレスを発信している。その履歴は原理的に追跡可能であり、彼らは「個人」として存在している。いま匿名性の価値が再考されねばならないのは、このような状況認識においてのことである。

ここまでの整理

今回でこの連載はひとつの区切りを迎えた。筆者は、第三回で、情報化時代の新しい権力が人々の自由を奪うとして、ではそこで「権力」や「自由」と呼ばれているものの実質は何なのか、少し根本に遡って考えてみたいと記していた。すでにその問いには一定の答えが出たと考えてよいだろう。ここまでの議論を簡単に整理しておきたい。

第三回と第四回では、まず「権力」についての現代思想の知見を導入し、規律訓練型権力と環境管理型権力、法や規範による秩序維持とアーキテクチャによる秩序維持の差異を明確にした。ポストモダン化され、中心的な規範を失っている私たちの社会は、ますます後者のタイプの秩序維持に依存し始めている。

そしてその変化は、多様性と情報管理を共存させる、独特の二層構造が台頭しつつあることも意味している。表層では確かに多様な価値観やイデオロギーの共存が許されている。しかしそれは、より深い層において、それら相互の軋轢を安全な(セキュアな)範囲に収めるため、徹底した情報管理が行われるかぎりでのことなのだ。このような社会においては、情報管理の暴走を特定の思想によって抑え込むことがきわめて難しい。

続く第五回では、その困難の一例として、二〇世紀末の情報技術革命を支えた自由至上主義(サイバーリバタリアニズム)に注目した。情報技術が自由を拡大するというハッカーの信念は、いまや現実に裏切られている。その理由は、彼らが技術を価値中立的に捉えていたからである。特定のアーキテクチャを採用すれば特定の自由しか実現されない。高度に情報化された現代社会では、その影響はオフラインの活動にも広く及ぶ。環境管理型権力はそこに忍び込む。

第六回と第七回では、今度は同じ事態を「自由」の側から検討した。私たちの社会は、自由の実現に際して深刻な困難を抱えている。消極的自由は肥大しているが、同時に積極的自由は危機に瀕している。情報管理への依存は、市民ひとりひとりの立場から見た場合、その困難からの逃走として解釈することができる。環境管理型権力の全面化はこの意味では必然であり、ポストモダン化やセキュリティ化といった社会的な変化と情報化という技術的な変化は、この大きな流れの二つの側面だと考えることができる。私たちはいまや、制度的にも技術的にも、個人情報との交換でしか自由を得ることのできない、匿名を拒否する社会に生き始めているのだ。そしてその流れはまだまだ止まりそうにない。

以上の認識を踏まえたうえで、次回から先は、個人情報との交換で得られる自由ではない、私たちの本来の「自由」を守るためにいまどのようなヴィジョンが必要なのか、匿名性の問題を足場として考えていくことにしたいと思う。


(現在準備中)