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情報自由論第10回

労働=消費の場を覆うネットワーク

著者:東浩紀
初出:『中央公論』2003年5月号、中央公論新社


私たちの社会は、単一の価値観(大きな物語)を強制することによってではなく、複数の価値観(小さな物語)を容認し、かわりに情報管理を強化することで秩序を維持し始めている。言い換えれば、イデオロギーではなく、セキュリティを軸として秩序を組み立て始めている。それは、イデオロギーが崩壊し、国民国家の境界が流動化し、伝統が解体したあとに可能な、ほとんど唯一の秩序モデルである。その変化は、抽象的には七〇年代にポストモダニズム系の思想家たちに先取りされていたが、具体的にだれの目にも明らかになったのは冷戦体制崩壊以降のことだ。

たとえば、最近邦訳され、随所で大きな話題を呼んでいるアントニオ・ネグリとマイケル・ハートの共著『〈帝国〉』は、まさに、ポストモダン論を冷戦以降の世界理論と接続するという構想のもとに記された著作である。彼らが描き出す「帝国」とは、国民国家的な規律訓練の失墜のあと、グローバルなネットワークを介して、多様な「群衆」(邦訳では「マルチチュード」とカタカナ表記されている)を多様なままにしておきながら柔軟に管理する権力システムのことだが注1、これは、本論で「環境管理型社会」と呼んできたものと同じモデルを指している。確かに、ネグリとハートが世界規模の秩序変動を対象としたのに対し、本論はより小さな規模での社会構造の変質を扱っており、その点に無視できない違いはある。しかし基底にある流れは同じだと言える。

私たちの社会は、ミクロなレベルでもマクロなレベルでも、多様性を多様性のままにしておきながら、その全体を管理し安定させる秩序を模索している。それそのものは批判すべきことではない。しかし、ここで必要なのは、そのモデルに何か弱点や欠陥はないのか、もしあるとすれば、その弱点を克服するためにどのような枠組みを用いればよいのか、概念のレベルで検討する人文的な作業だ。ネグリとハートは、この問題設定のうえで、スピノザとマルクスの伝統を活かし、「帝国」対「群衆」という新たな対立軸を構想してみせた。それは、概念の発明とでも呼ぶべき注目すべき成果である。

しかし、同時に、その議論は、ときにあまりに神学的で大雑把なようにも思われる。その欠点についてはまたあとで論じるとして、とりあえずここで試みたいのは、彼らの志を共有しながらも、同じ罠に嵌ることなく、より実践的な概念を発明することである。筆者がそこで最初のステップとして提案したいのが、ネグリとハートがやや過大に評価している「グローバルな群衆」を支えるインフラの再検討、とりわけ匿名性の再検討、具体的には、「表現の匿名性」「能動的な匿名性」と「存在の匿名性」「受動的な匿名性」とを分けて考えることなのだ。

では、その区別がなぜ重要なのか。前二回で具体的な事例を挙げてきたので、今回と次回では、逆に思想的な方面からその議論を裏書きしておきたい。

労働/製作/活動

政治思想家のハンナ・アーレントは、一九五〇年代に出版された有名な著作『人間の条件』において、人間の生活を、「労働 labor」「製作 work」「活動 action」の三つの領域に分けている注2

労働とは、「人間の肉体の生物学的過程に対応する活動力」、すなわち、日々生きていくために行う必要不可欠な作業を指す。製作とは、「人間存在の非自然性に対応する活動力」であり、自然を加工し、生命の循環を逸脱した人工的な世界を作り出す作業を意味する。そして、活動とは、「物あるいは事柄の介入なしに直接ひととひととのあいだで行われる唯一の活動力」であり、社会的で政治的な行為を指している。分かりやすい例を挙げれば、家賃を捻出するためのアルバイトは「労働」、趣味の作曲は「製作」、バンドを組んでのライブは「活動」となる。

アーレントは最後の「活動」にもっとも高い価値を置いた。その理由は、活動の領域でこそ、人間はひとりの人格として現れる、つまり、本論の言葉で言えば「顕名的」な存在になりうると考えられたからである注3。バイトする私は、無名の労働力、彼女が言うところの「労働する動物」にすぎない。作曲は創造的な行為だが、そこでも私の固有名は必要とされない。良質の作品は作者名とは関係なく流通するからだ。しかしライブは違う。舞台に立ち、楽器を演奏する私は、バイトや作曲行為とは異なり、観客たちの前に固有の人格として現れている。労働および製作の領域は無名あるいは匿名の世界だが、活動の領域は固有名に満ちている。そして、アーレントは、このような「現れ」こそが、政治と公共性の成立条件だと考えた。社会を作るとは、その成員が、たがいに固有名をもつ存在として「現れる」ことなのだ。

この主張はきわめて単純だが、常識と一致する点で強い説得力がある。実際に、このような三領域の区別は、とくにアーレントを参照しなくても無意識に多くの議論のなかに入り込んでいる。情報社会論も例外ではない。

たとえば、情報倫理の議論においては、「規範的自律性と高度な技術的リテラシーの共有、およびそれらに基づく、WWWの普及以前の民主主義的運営」で特徴づけられるかつてのネットワーク・コミュニティを高く評価し、一九九〇年代の「大衆化・商業化」したインターネットを警戒する見解がしばしば見られる注4。かつてネットにはハッカーや研究者しかいなかった。それがいまや、「高度な技術的リテラシーをもたない大量の匿名的ユーザー」が流入し、その変化がトラブルの原因となっている。したがって、その解決のためには、ユーザーの自覚と能力を高め、公共性を回復しなければならない、というわけだ。ここでは、インターネットのあるべき姿は、アーレントの言う「活動」の領域、開かれた豊かなコミュニケーションを可能にする電子的公共空間として捉えられている。前述のネグリとハートを含め、ネットワークに新たな知や運動の可能性を見る人文系の論者は、多くが暗黙のうちにこの見解に与していると考えてよい。

また別の見解として、ネットワークを、「活動」と「製作」、つまり人格的なコミュニケーションと共同作業が結ばれた複合的な領域として捉える考えかたがある。オープンソース運動の理論家、エリック・レイモンドによる有名な分析が、その一例だと言えるだろう注5

レイモンドによれば、ハッカー・コミュニティを成立させ、Linuxのような巨大なソフトウェアを草の根的に作り出す原動力になったのは、その成員のあいだで働く「評判ゲーム」である。すぐれたコードを書き、すぐれたパッチをあてれば、ハッカー仲間から高い評判を得られる。その非経済的な競争が、結果として、中心を欠いたままでの効率的なソフトウェア開発を可能にする。これは、アーレントの言葉を用いれば、ハッカー同士の人格的な関係(活動)が、集団的で匿名的な大きな共同作業(製作)を可能にしているという主張である。このネットワーク観は、政治や倫理の基礎というより、むしろ新しいビジネスモデルとして注目を集めた。活動と製作のポジティブ・フィードバックで特徴づけられるそのモデルは、第三の領域である「労働」と切り離されている。第五回でも短く触れたように、『リナックスの革命』の著者、ペッカ・ヒマネンは、この特徴をもって、情報社会の労働からの解放を多幸症的に謳いあげている(彼自身がアーレントを参照したわけではないが)。

情報社会論の弱点

このように、アーレントによる「労働」「製作」「活動」の区分は、従来の情報社会論を整理するうえでも示唆的である。と同時に、それは、以上の議論の弱点も照らし出してくれる。

上記の二例、すなわち、ネットワークを新たな公共空間(活動の領域)として捉える議論や、新たな協働の場(活動と製作の領域)として捉える議論は、随所で活発に展開されている。しかし、いま輪郭が見えつつあるユビキタス社会、すなわち、デスクトップ・コンピュータを介したインターネット接続だけでなく、IDカードや生活家電を始め、身のまわりの多くのものが、ときに有線、ときに無線でネットワークに自動的に接続されるような新たな状況は、以上の射程で有効に分析できるだろうか。

一〇年前ならともかく、インターネットが普及したいま、多くの人々は、文化活動や政治運動(活動)、あるいはビジネス上の共同作業(製作)のような強い目的意識をもってネットワークに接続しているとは思えない。それどころか、今後のネットワークは、ユーザーが自分がいま接続しているかどうかすら意識する必要がない、かぎりなく透明な存在になっていくと思われる(最近のWindowsですら半ばそういう存在である)。

だとすれば、ネットワークの充実が新たな「活動」や「製作」の場を準備するのは疑いないとしても、そこに、もうひとつ、また別種のネットワーク観を付け加えておくべきではないだろうか。

ではそれはどのようなものか。ここで注目したいのが、アーレントによる「労働」の定義である。前述のように、その言葉は、人間が生物として生きていくのに必要不可欠な行為一般を指している。しかし彼女がそこに込めた含意は、その定義から連想されるものよりもかなり広い。

前述の「労働する動物」という表現からも分かるように、アーレントは、人間が単なる生物学的条件を超えて「人間である」ためには、活動や製作に携わる必要があると考えていた。裏返せば、人間であることの意味が失われた行為を、彼女は広く「労働」と呼んだわけである。そこには、いわゆる労働だけではなく、日常の必要性を満たすための消費行動(衣食住)、さらには、そのような必要性から解放された趣味的な消費まで含まれている注6

アーレントの理論においては、労働と消費は等しく「動物」のものである。詳細に踏み込むのは避けるが、ここには、マルクス主義の批判と消費社会の批判というふたつのモチーフが重ね合わされている。マルクス主義者は労働者の労働からの解放を訴えた。そしてそれは、表面的には、一九五〇年代のアメリカで達成され始めていた。しかし、そのあとに来るのは、人間性の回復ではなく、むしろ疎外の徹底化、すなわち、市場の論理に追いかけられて労働と消費(余暇)がくるくる回転するだけの空虚な社会ではないか、とアーレントは問いかけている。言うまでもなく、この批判はいまも有効性を失っていない。彼女の著作が出版されて以来、アメリカ型の「動物的」な消費社会は、まさに世界中を覆い尽くしていった注7

労働=消費の場としてのネットワーク

この「労働=消費」の概念こそが、いまのネットワークが果たし、また今後も果たし続けるであろう社会的な機能を分析するための新しい(というよりも、新しくて古い)視角を用意してくれる。情報技術革命は、コンピュータとネットワークを、「規範的自律性と高度な技術的リテラシー」を備えた一部の専門家にではなく、大衆に開放した。その大衆化は、かつて自動車や冷蔵庫やテレビが急速に普及したように、まさに戦後の時代に始まった消費社会化の延長線上にある。二十一世紀のコンピュータは、「思考のための道具」注8というよりも、まずは家電なのだ。

家電は日常生活のために使われる。同じように、いま多くの人々は、コンピュータとネットワークを「労働=消費」の場で用いている。それは何も、携帯電話で職を探し、インターネットで通信販売を利用するような行為だけを意味するのではない。たとえば朝起きてニュースサイトを見る。携帯メールで同僚と挨拶を交わす。自宅に帰り、寝る前にお気に入りの掲示板をいくつか巡回し、気が向いたら何かを書き込む。このような行為は、すべて広義の「労働 =消費」に属している。ニュースを確認するのは好奇心からというより職場での会話を弾ませるためだし、メールを交換し、掲示板で議論を盛り上げるのも、社交性からというよりは、退屈な日常から一時的に逃げ出すためだ。インターネットを介した情報交換は、多くの場合、いわゆる「クリエイティブ」な活動に向かうのではなく、労働 =消費のルーチンを、より効率的にする、あるいはより耐えやすく変えるために(一九九〇年代に流行した言葉を使えば「癒し」のために)、使われている。匿名掲示板や出会い系の必然性は、この視点を導入しないと、理解できない。

この傾向はユビキタス社会の到来によってますます強まるだろう。コンピュータとネットワークは、職場や家庭の隅々にまで入り込み、私たちの生を無数の局面で支援し方向づけるようになるだろう。それは、アーレントの言葉を使えば、情報技術の機能の場が、意識的で人間的な「活動」「製作」から、無意識的で動物的な「労働 =消費」へと大きく拡がっていくということでもある。

多くの情報社会論はこの視点を軽視している。それらの議論は、研究者やハッカーや企業家のような、ネットワークを確固たる目的意識をもって使う主体的で能動的な人々のことばかりを考えている。しかし、現実に多いのは、新たなシステムを使いこなす人々ではなく、新しいシステムに使われ、支配されてしまう人々ではないだろうか。そしてその数は、いくら技術的リテラシーを高めようと努力したところで、決して一定以下にはならないのではないだろうか。

環境管理型社会の概念を使い、本論で訴えてきたのは、そのような大衆、あるいは情報弱者への視線の必要性である。私たちが考えるべきなのは、能動的なユーザーではなく、受動的なユーザーなのだ。言い換えれば、選択肢の多さに耐えられるユーザーではなく、そこから遁走するユーザーである。

このようなタイプの議論は、読者によっては、あまりに「左翼的」で古くさいと感じられるかもしれない。確かに、本論で参照した論者は多くが左翼系の思想家だし、管理にしろ権力にしろ手垢にまみれた言葉ではある。しかし、本論の目的は、国家か市民か、秩序か自由か、といったイデオロギー的な論争にはない。第二回でも強調したように、そもそも現状はそのような対立では捉えられない。

筆者がここで強調したいのは、ただ、アーレントが人間の生を三つの領域に分けたことにならって、情報技術の機能も三つの領域との関わりで捉えられるべきだということである。コンピュータとネットワークは、新たな公共空間を開くこともできれば(活動)、新たな協働のモデルを用意することもできる(製作)。しかし、それはまた、セキュリティとマーケティングの精緻化を介して、秩序維持の媒体にもなりうるのだ(労働=消費)。

前掲のヒマネンも強調するように注9、情報技術革命は、勤務時間と余暇時間の境界をかぎりなく曖昧にしてしまった。ひとはいまでは、自宅や旅行先でも業務のメールを受け取ることができるし、逆に勤務先でも家族と連絡を取ることができる。その結果、余暇時間まで「労働」に組み込まれてしまうか、あるいは逆に、勤務時間をよりフレキシブルな「活動」に昇華させることができるか、それは個人の才覚にかかっている。そこで後者の道を歩むことができるのが、ヒマネンの定義するハッカーである。

確かにそれはすばらしい。しかし、私たちは、そのすばらしさを認めつつも、やはり前者の道しか選ぶことのできない人々が圧倒的多数であることを忘れてはならない。活動と製作の多様性を促進するネットワークと、労働=消費の秩序を維持強化するネットワークは、同じコインの表裏である。

顕名的な市場の出現

能動的な顕名性=匿名性から区別し、受動的な顕名性=匿名性を切り出す必要があるのは、ネットワークのこの裏の面を理解するためである。

前述のように、アーレントは、ひとは活動の領域(公共空間)でこそ顕名的な存在になれると論じていた。裏返せば、労働=消費の場(市場)とは、ひとからその固有名を奪うものだと考えていた。その根拠は、市場で生産物を交換する人々は、「人格としてではなく、商品と交換価値の所有者として出会う」からである注10。これは別にアーレントの独創ではなく、古くから指摘されている特徴である。市場は共同体と共同体のあいだに生成する。したがって、そこで行われる売買においては、交換の相手がだれで、交換される商品がどのように入手されたものか、その背景事情はいっさい問題とならない。あらゆるものの価値を貨幣という単一の媒体で表象してしまう市場のシステムは、別の視点から見れば、あらゆるひとの人格を売り手=買い手という単一のモデルによって消し去ってしまう、巨大な匿名化装置なのである注11。マルクスの有名な「自己疎外」、つまり人間の商品への堕落は、この特徴に起因している。

しかし、この前提は、受動的な顕名性に満たされた社会、ユビキタスな情報環境が整備され、身につけた小型の機械、あるいは身体そのものによってつねに身元が特定されてしまう環境管理型社会の到来によって大きく揺らいでいる。労働=消費の場は、もはや以前のような匿名化装置としては機能しない。現金は匿名だが、クレジットカードは顕名である。古びた個人商店でひっそり食料品を買うのは匿名的な行為だが、防犯カメラに満たされたコンビニやスーパーでレジを通るのは顕名的な行為である。

そしてこの顕名性の遍在化は、いまやヒトではなくモノにも及んでいる。最近頻繁にマスコミを賑わしている、情報家電や無線タグ、ICタグ、電子レシートなどの構想は、私たちの消費のありかたを革命的に変える可能性を秘めている。冷蔵庫やレンジに備え付けられるコンピュータから、生鮮食料品のパッケージに刷り込まれる砂粒大のタグまで、多くの商品が、どこでどのような状況にあるのか、つねに情報を発信し続ける世界が技術的に実現可能になり始めている。

たとえば、私たちはいま、食料を匿名的に買わざるをえない世界に生きている。目の前に並ぶ肉や野菜が、どこでどのような環境で生産され、だれに処理され、どのような保存状態で運ばれてきたのか、多くの情報は消費者には隠されている。ときおり生産者の顔写真などが掲示されていることもあるが、それは小売店がサービスで用意したものにすぎず、消費者がその真偽を確かめる手段はない。ユビキタスの技術はこの状況を根底から変えることができる。

これは筆者の想像だが、あらゆる生鮮食料品のパッケージに同一規格のICタグの添付を義務づけ、生産農家や加工業者が電子署名を施し、流通過程での位置情報と環境情報を記録させ、消費者の購入後は冷蔵庫がそのデータを自動的に読み込み、共通サーバ上のデータと比較対照して改竄の有無を確認できるようにする(そしてその購入データは統計資料やダイレクト・マーケティングにも利用される)、などというシステムは比較的簡単に実現可能だろう。このようなサービスが実現されれば、消費者の不安は大幅に軽減されるにちがいない。

しかし、それはまた、だれがいつどこでなにを買ったのか、必要とあらばおそろしく精密に追跡できる顕名的な市場の誕生を意味している。第七回でも参照したドゥルーズの言葉を使えば、現在の「労働する動物」は、「群れ」としてではなく、記名された一匹一匹の単位で肌理細かく把握される存在なのである。アーレントはこのような技術は知らなかった。

コミュニケーションと動物的な管理

アーレントは、コミュニケーション(活動)の場を顕名性の領域として、日常生活(労働=消費)の場を匿名性の領域として捉えていた。その前提は長いあいだ正しかった。しかし、新たな情報技術に取り囲まれた私たちは、前者を能動的な顕名性の領域として、後者を受動的な顕名性の領域として捉えなおす必要がある。そこではもはや、匿名的で無秩序な社会=市場のうえに、顕名的な大きな公共空間(たとえば国家)が被さっているというイメージは通用しない。

適当なのは、むしろ、受動的な顕名性を利用して管理された社会=市場のなかに、古典的な意味で顕名的な小さなコミュニケーションの空間が無数に浮かんでいる、という別種のイメージである。

筆者は第四回で、ポストモダンの社会は「二層構造」で特徴づけられると述べた。そこで「多様性の層」と「情報管理の層」として捉えておいた構造は、今回の言葉で言い換えれば、活動の層と労働=消費の層、能動的な顕名性の層と受動的な顕名性の層、人格が問われる層とユビキタス技術で常時監視される層、つまりは、人間が人間でいられる層と人間が動物として管理される層の二層構造ということになるだろう。

二十世紀末の情報技術革命は、その両者の可能性をともに拡大してしまった。その変革は、世界中の市民が、地理的な制約を離れどこでもだれとでも思想を交換しあうことができるすばらしい環境を創り出すとともに、性犯罪者の体内にGPSチップを埋め込み、現在位置をたえず把握するような恐ろしいシステムも可能にしてしまった注12。この両者の流れは、ばらばらに進みながらも、本質的には相互に依存している。情報技術が私たちの自由を拡大し、同時に脅かす厄介な両義性を帯びている理由は、このような社会構造への視点をもたなければ、理解できない。


(現在準備中)