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情報自由論第9回

表現の匿名性と存在の匿名性

著者:東浩紀
初出:『中央公論』2003年4月号、中央公論新社


匿名性とは何か

そもそも匿名性とは何か。一般に言葉の意味を明らかにするときは、対義語を考えてみるとよい。では「匿名」と対になる言葉とは何だろうか。あらためて考えてみると、意外と適当な言葉が思いつかない。

東京堂の『反対語対照語辞典』は対義語として「記名」を挙げている。しかしこれは、文字どおりには「無記名」と対になる言葉である。また、日常の用法では、実名報道と匿名報道の対など、「実名」が匿名の対として使われることがある。しかしこれも、正確には「仮名」や「偽名」と対になる言葉である。無記名や仮名と匿名のあいだには大きなニュアンスの違いがある。

岩波書店の『広辞苑』第五版によれば、匿名とは「実名をかくして知らせないこと」を意味する。とすれば、その対義語には「名前を知らせる」という能動的な意味が含まれていなければならないだろう。ところがそのような言葉はあまり流通していない。辞書を漁ると「顕名」や「歴名」といった言葉が見つかるが、日常生活では使われていない。

実は英語でも事情は同じのようである。「anonymous」には語源的には「onymous」という対義語があるが、この言葉はほとんど使われず、たいていの辞書には収録すらされていない。匿名の逆の状態というのは、私たちのいままでの習慣では、とくに名指される必要がなかったものらしい。

仕方ないので、本論では、匿名の逆の状態を広く「顕名」と呼ぶことにしておこう。この言葉は本来は法律用語として使われるようだが、ここでは「名前を明らかにすること」あるいは「明らかにされてしまうこと」を一般に指す言葉だと捉えておく。

匿名は使われるが、顕名は使われない。この非対称性には、実は重要な問題が示されている。匿名の概念は、歴史的に言論活動と深く結びついている。小学館の『日本国語大辞典』第二版に挙げられた用例は、すべてジャーナリズムの文脈で使われている。英語の「anonymity」(匿名性)は、『オックスフォード英語辞典』第二版(CD−ROM)では、「著者あるいはその著作物について用いられる」言葉だと記されている。匿名とは、ただ単に、実名が隠され、知られていない状態を意味する言葉ではない。無名の投書から政治犯が偽名で出版した著作にいたるまで、匿名性はつねに何らかの表現を前提としている。何かを能動的に述べ、書き記し、発表していながら、あえてその責任を負うべき著者の名前を隠すこと、それが「匿名」である。

だとすれば、その逆の状態を表す言葉=顕名がとくに流通していないことも頷ける。そもそも多くの表現は、名前を誇示しようという欲望、すなわち他者からの承認への欲望をその源としている。したがって、匿名でないことは表現一般の前提であり、取り立ててそれを名指す必要はなかったのだ。みなが競って自分の名前を誇示し、固有名に満たされたエネルギッシュな表現活動の一角に、本人の希望からか、止むをえない事情からか、歴史的な偶然からか、とにかく何らかの理由で作られた匿名性の領域が例外的に存在する。これが、かつて「匿名」という言葉について抱かれ、おそらくいまでも議論の前提となっているイメージである。

「顕名社会」の到来

しかし、情報技術が生活の隅々に浸透しているいま、顕名性/匿名性の問題は、このイメージでは捉えきれない新しい側面を抱え始めている。

顕名であるか匿名であるかの選択は、かつては表現者に関わるものだった。それは、情報を発信する意志をもつ人々、具体的には、作家やジャーナリスト、あるいは匿名を希望する告発者や犯罪者におもに関係する事柄だった。

ところが、その選択は、いまや、表現とは何の関係もない一般市民にも深く関係し始めている。現在の情報環境は、こちらが何も活動を起こさなくても、私たちが身につけている小型の機械(携帯電話やICカード)、あるいは私たちの身体そのもの(顔認証などのバイオメトリクス)から勝手に情報を奪い取り、身元を特定してしまう。ユビキタス社会とは、私たちがいつどこで何をしているのか、物理環境に埋め込まれた情報機械が、それぞれの目的にしたがってたえず監視し続けている社会のことでもある。私たちはいまや、情報発信の意志などなかったとしても、少しでも油断すれば、名前が明らかになってしまう「顕名社会」に生き始めている。匿名なのかそうでないのか、つねに意識し、個人情報を管理しなければならないような厄介な社会が、私たちの目の前に開けている。

前回の末尾にも記したように、この状況の到来は人々を混乱に陥れている。多くの市民は、いま、匿名性の喪失をプライバシーの喪失と捉えて漠とした不安を抱くと同時に、犯罪者やストーカーの匿名性を怖れ、顕名性をますます推進するという矛盾した反応を示している。この矛盾こそが多くの議論を空転させているわけだが、しかしそれは、単なる心理的な混乱というより、むしろ(前回論じたプライバシーと同じく)匿名性の概念そのものの変質の現れとして捉えたほうがよいだろう。ではその変質はどのようなものなのか。

2ちゃんねると匿名性

情報環境の変化は匿名性のありかたにも大きな影響を及ぼしている。とはいえ、ここで議論したいのは、決して、物理世界の古い匿名性からサイバースペースの新しい匿名性へ、といった単純な変化ではない。

あえてインターネットの例で考えてみよう。ネットと匿名性の関係を論じるとき、日本で必ず話題になるのは、本論でもたびたび触れてきた「2ちゃんねる」である。あらためて説明しておくと、2ちゃんねるは、掲示板の集合体であり、政治経済から風俗まで、あらゆる話題について膨大な数のスレッド(スレとも呼ばれる。同一のテーマをめぐる発言の連鎖)がひしめく巨大サイトだ。

このサイトは、一九九九年に立ち上げられ、翌年五月に佐賀県で起きた西鉄バスジャック事件で犯罪予告が書き込まれたことをきっかけとして、広く知られるようになった。だれでも匿名で新たなスレッドを立ち上げることができ、その手軽さから、ネットユーザーの意見交換の場として圧倒的な人気を誇る。一日あたりのアクセス数はときに一〇〇万を超え、JARの調査によると、Yahoo!、楽天、MSNに次いで四番目に多いユーザーを集めている注1。規模的にはもはやマスメディアと呼ぶべきであり、事実、最近では、新聞やテレビなどの報道機関が2ちゃんねるの書き込みを後追い的に取り上げることも珍しくない。

この巨大な匿名掲示板の存在は、多くの人々を惹きつけると同時に、また強い警戒感を呼び起こしてきた。実際に、ここ一、二年、2ちゃんねるの管理人に対して、匿名で行われた書き込みの削除や、内容によって生じた名誉毀損の損害賠償を要求する民事訴訟が相次いで起こされている。前回の注でも述べたように、昨年夏にはそのひとつで管理人敗訴の判決が下され、その結果、2ちゃんねるが現状のままであり続けることはきわめて難しい状況になっている。おそらく今後は、2ちゃんねるでさえも、発言者のIPアドレスを記録し、法的責任を追跡するシステムを整備せざるをえないだろう。これは、ひとことで言えば、掲示板の匿名性が仮名性に変わらざるをえないことを意味している。いまネットの一部では、この変化が大きな議論を呼んでいる。

2ちゃんねるの変化あるいは消失は、日本のインターネットにとってきわめて大きな事件である。したがって、その含意については別の機会に詳しく検討する必要がある。しかし、この問題は、実は、本論で論じたい匿名性の変質とはあまり関係していない。

匿名の意見が何らかの媒体で発表され、それが犯罪行為と見なされて媒体ごとトラブルに巻き込まれるというケースは、決してインターネットが生み出したものではない。ここ数年、2ちゃんねるの役割がきわめて大きくなっていたのは、そのシステムが、公的な価値をもつ内部告発から、私的な中傷や非合法な情報交換まで、匿名の「表現」を求める大衆の欲望を、出版や放送よりもはるかに簡単に実現したからにすぎない。この欲望は昔から存在した。したがって、たとえ2ちゃんねるの匿名性が失われたとしても、同じ欲望は変わらずに存在し、また別のシステムを探し出すことだろう。事実、最近では、強い匿名性を必要とする情報はまずP2Pのネットワークで広まり、そのあとで、IPアドレスを特定されないように慎重な対策を取ったユーザーによってウェブ上に投稿されるという二段階型の流通が現れている注2

情報を発信=表現しつつ、かつ発信者の名前を隠したいという欲望は、活字、放送、インターネットと、技術に従って形態を変えたとしても、一貫して存在する。そして、その匿名性が犯罪の温床と見なされたり、逆に「表現の自由」の基盤として擁護されたりする点も、昔から変わらない。いかにもインターネット的な事例ではあるものの、ここで問題となっているのは、あくまでも表現者を支える伝統的な匿名性である。

二つの匿名性

では、匿名性の新しい側面は、インターネットではどのような局面で問題になるのだろうか。原理に立ち返って考えてみよう。出版や放送のような従来型のメディアでは、発信者と受信者のあいだに本質的な差異がある。本を出版するひと、電波を発信するひとは顕名が前提となるが、本を読むひと、電波を受信するひとはとくに名前を明らかにする必要がない。本屋の片隅で雑誌を立ち読みし、受信料を払わずにNHKを視聴し続けたとしても、ひとはいかなる個人情報も渡さなくてよい。

ところが、ネットに代表される新しいメディアでは、発信と受信の区別はかぎりなく曖昧になる。ウェブページを「読む」とは、そもそも、ユーザーのコンピュータが相手のサーバに要求を送り、その処理の結果として返されたデータを再構成して人間が読めるかたち(スクリーン上の文字や画像)にするという複雑な過程から成る行為である。あえて出版の隠喩にこだわるとすれば、これは、一ページ一ページ、出版社に直販の注文を出して、特注で印刷してもらい、それを送ってもらって読んでいるような行為だ。したがって、私たちがあるページを「読む」だけであっても、そのページが置かれたサーバ上には、こちらのIPアドレスやアクセスの日時が逐一保存されている。

裏返せば、そこで何かを「書き込ん」だとしても、「読む」行為とのあいだにそれほどの違いがあるわけではない。事実、掲示板の書き込みも、ユーザーのコンピュータがサーバに要求を送り、その処理の結果として返されたデータを再構成して人間が読めるかたちにする、という点では単なる閲覧とまったく等価の過程である。

ネットにおいては、発信者と受信者のあいだに本質的な差異はない。情報を書き込んだ者も、それを読んで無責任に楽しんでいた者も、アクセスログがきちんと保存され解析されれば、同じようにIPを特定されてしまう。ふたたび出版の隠喩を使えば、それは、あたかも、匿名記事が満載のアングラ雑誌を立ち読みしたら、その一回一回が出版社の調査員によって記録されてしまうような世界なのだ。私たちは、いまだかつて、このようなメディアと付き合ったことがない。この環境においては、非合法な情報に溢れるサイトを、透明なユーザーとしてただ傍観するという立場はもはや許されない。テロリスト支援のページや麻薬売買の情報掲示板に頻繁にアクセスしたという記録は、もしそこで何も発言していなかったとしても、明らかになればユーザーの社会的地位を危機に追い込むことだろう。

ここにこそ、私たちがいままで慣れ親しんできた「表現の匿名性」とは異質の、「存在の匿名性」とでも呼ぶべき新しい顕名性/匿名性の問題が立ち現れている。前者は、ひとが能動的な表現行為を行い、しかもその責任者の名前を隠したいときに必要となる匿名性だが、後者は、ひとがただ存在しているだけのとき、そこで名前が奪われ知られるのを防ぐために必要な匿名性だ。

表現と存在、という対置が分かりにくいのならば、両者を「能動的な匿名性」と「受動的な匿名性」として理解することもできるだろう。かつて後者の匿名性は問題にならなかった。受動的な顕名性、すなわち、自分の意志とは関係なく勝手に名前が奪われる、という事態が考えられなかったからだ。その台頭は、情報の発信と受信のあいだをかぎりなく曖昧にする、新しいタイプの情報環境の整備に起因している。

本論が注目したいのは、顕名/匿名の概念が、能動的な表現行為に関わる狭いものから、存在のすべてを覆う広いものへと変わっていく、この変質である。インターネットはこの点でよい観察例になる。ユビキタス社会が目標とする全面的な顕名性が、そこでは、アクセスログの存在というかたちできわめて簡便に先取りされているからだ。

見えにくい危険性

能動的な匿名性の確保は、文字どおり「アクティブ」に発言するヘビー・ユーザーにしか関係しないが、受動的な匿名性の確保は、刺激的なサイトを求めネットサーフィンを楽しむすべてのユーザーに関係している。したがって、この問題は、本来は大きな注目を集めてよい。にもかかわらず、2ちゃんねるの一件を見ても、発言者の匿名性が失われる可能性に較べ、閲覧者の匿名性が失われる可能性はほとんど関心を惹いていないように見える。

確かにこの問題はまだそれほど深刻ではない。実際には、ウェブページの閲覧者を特定しなければならないような局面は考えにくい。それに技術的にも限界がある。たとえば2ちゃんねるでは、サーバ横築用のソフトウェアが生み出すアクセスログは、あまりに大きなファイルになってしまい、保存も解析も現実的ではないと言われている。IPアドレスの記録は別のプログラム(CGI)で行われているが、その内容も部分的に公開され、閲覧者のIPは記録しないことが確認されている。

したがって、現状の2ちゃんねるでは、特定のユーザーがいつどのスレッドにアクセスしているか、追跡可能になっているとは考えられない。加えて、たとえIPが記録されたとしても、ただちにユーザーの特定に繋がるものでもない。多くのユーザーは固定したグローバルIPを使っていないし、国外のプロクシサーバを通過すれば、IPの追跡を法的に不可能にすることは簡単にできる。このような状況では、受信者=閲覧者の匿名性が失われる危険を憂うのは、いささかナンセンスに響くかもしれない。

しかし、インターネットがユーザーの顕名性を原理とし、従来のメディアと根本的に異なる性質をもっている以上、その特徴は遠からず私たちのネットの利用法にも大きな影響を与えるはずである。2ちゃんねるから離れ、国際的な動きに目を向けてみよう。

サイバー犯罪条約と児童ポルノ

ここでぜひ触れておきたいのが、本論でも名前だけは何度か挙げており、本誌昨年十月号の特集でも取り上げられた「サイバー犯罪条約」である。

この条約は、二〇〇一年十一月にヨーロッパ評議会で採択され、アメリカやカナダ、日本を含む主要国がすでに署名を済ませている。現在は批准国が出揃うのを待つ状態であり、もし発効すればサイバー犯罪に関する世界初の包括的な国際条約になる。その条文は、対象となるサイバー犯罪をあまりに広く定義し、また各国の捜査当局にきわめて強い権限を認めるため、草案時から識者により厳しく批判されていた注3。9・11以降のセキュリティ強化を象徴するひとつの例と言えるだろう。

詳しい批判は専門家に任せるとして、ここで注目したいのは、この条約が、トラフィック・データ(通信記録)の保全(第一七条)、および児童ポルノ関連犯罪の処罰(第九条)について、それぞれ一条を設けて詳しく規定しているということである。ここには、受動的な顕名性の利用がいかにインターネットの管理にとって重要なものになるか、ひとつの分かりやすい例が示されている。

順を追って見ていこう。トラフィック・データとは、条約の定義によれば、「コンピュータ・システムという手段による通信に関連するコンピュータ・データであって、通信の連鎖の一部を構成するコンピュータ・システムによって生成され、その通信の発信地、受信地、経路、時刻、日付、サイズ、持続時間またはその背後にあるサービスのタイプを示すもの」を意味している(第一条)。つまり、具体的には、ウェブサイトのアクセスログや携帯電話の位置情報などを指している。サイバー犯罪条約は、そこで定められた犯罪のすべてについて、関連するトラフィック・データの保全を命じている。しかも、別条で定められているように、その追跡は国境を越えることができる。

他方の児童ポルノについては、説明の必要はないだろう。ただし、サイバー犯罪条約が定める児童ポルノ関連犯罪の範囲は、日本の国内法が定めるものよりも大幅に広い。条文の定義によれば、児童ポルノには「あからさまな性的なふるまいを行う未成年者であるように見える者」の視覚的な描写、および「あからさまな性的なふるまいを行う未成年者を表現する写実的画像」が含まれるので、被害児童がいないCGやフォトコラージュも標的になる可能性がある。

さらに、製造や頒布だけでなく、「自己または他人のために、コンピュータ・システムを通じて児童ポルノを入手すること」、および「コンピュータ・システム内またはコンピュータ・データ記憶媒体内に児童ポルノを保有すること」も犯罪と見なされている。つまり、高校生アイドルの水着写真を加工し、疑似的なヌード画像を自宅で制作し鑑賞するとすれば、それはすでに犯罪になってしまう。このような法制化は、従来の常識からすれば、表現の自由の侵害にも見える。しかしその背後には、現実の性犯罪の証拠である児童ポルノだけでなく、それに付随する観念や幻想の流通そのもの、そして小児性愛者同士の情報交換そのものが児童の性的搾取を支えているとする、新しいタイプの社会通念が存在している注4

サイバー犯罪条約は、児童ポルノの入手(ダウンロード)を犯罪と定義し、その捜査においてはトラフィック・データの国境を越えた追跡を認めている。したがって、この条約が発効され、各種国内法が整備された暁には、児童ポルノが投稿されている画像掲示板を読み込むだけで、問題のサーバが国外にあり、アクセスの過程でいくつものプロクシサーバを通過していたとしても、それらが条約締結国にさえ置かれていれば、のち捜査され逮捕される可能性が出てくる。実際の逮捕者は少数に留まるにしても、児童ポルノの消費者は、つねにそのリスクを念頭に置かざるをえなくなるだろう。ここではもはや、違法データの発信と受信のあいだには法的にも差異がない。そのうえで、受信者の顕名性が犯罪捜査に活用されている。これが、サイバー犯罪条約の条文から導き出せる、ネット管理のひとつの方向である。

雑音なき管理強化

言うまでもなく、本誌読者のなかで、非合法なポルノサイトや掲示板にアクセスした経験をもつユーザーは稀だろう。まして、児童ポルノともなれば、前掲のような匿名掲示板の問題とは比較にならない、きわめて特殊な事例だと思われるかもしれない。しかし、ここにはきわめて本質的な問題が隠されている。

児童ポルノの流通は新しい技術に支えられている。同時に児童ポルノへの国際世論はきわめて厳しい。規制に反対する勢力は皆無である。したがって、この問題に関しては、技術的な手段による規制強化を、社会的な抵抗をほとんど受けずに進めることができる。

ほかの問題ではこうはいかない。ネットを舞台とした犯罪の例としては、ほかサイバーテロや知的所有権の侵害が挙げられるが、公安警察の技術的強化(傍受捜査など)は市民団体の不断の監視のもとにあるし、著作権管理の技術的強化(コピープロテクトなど)も文化振興の観点から批判を浴びている注5。そこでは、イデオロギーや業界の利害が複雑に入り乱れ、いわば「雑音」が管理強化の歩みを遅めている。児童ポルノの規制に対しては、そのような雑音がほとんど存在しない。

とすれば、児童ポルノの規制は、特殊な性犯罪が生み出した例外としてではなく、将来のネット管理のひとつの雛形と捉えるべきではないだろうか。社会的な合意が技術的な管理強化をいつまで抑えられるのか、現状を見るかぎりはかなり心許ない。ポルノのダウンロードが性犯罪を促進すると考えられるなら、同じ論理で、ハッキングの手法やバイオテロに転用可能な生物情報へのアクセスもテロ支援行為だと考えられるだろう注6。著作権者の承諾を得ずにウェブで公開されたファイルは、厳密にはダウンロードするだけで違法である。ネットに繋がった無数のコンピュータを自動巡回し、違法ファイルを発見し摘発するシステムを開発すべきだとする主張はあとを絶たない。

繰り返すが、ネットはだれでも情報を発信でき、かつ受信できる。発信者と受信者の区別はかぎりなく曖昧であり、非合法に発信されたデータの受信者は、つぎの瞬間には発信者になるおそれがある。雑誌の読者が個人で出版社を起こし、ビデオの視聴者が放送や通信販売を始めるのはかなり難しいが、データをダウンロードしたユーザーは、翌日には簡単に別のニューズグループに同じデータを投稿することができる。

このような環境を前提とする以上、発信者を特定するだけでなく、潜在的な犯罪者=受信者の動向をあらかじめ把握しておくことが秩序維持のため不可欠だと考えられるようになるのは、もはや論理的な必然だろう。そしてそのような徹底した管理は、技術的には簡単に導入できる。したがって、あとは論理ではなく倫理の問題となる。表現の匿名性ではなく、存在の匿名性について考え始めることは、そのような環境管理の「正しさ」を相対化するための、ひとつの契機となるだろう。


(現在準備中)