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情報自由論第4回

イデオロギーなしのセキュリティの暴走

著者:東浩紀
初出:『中央公論』2002年10月号、中央公論新社


私たちの社会はますます複雑になっている。この社会を運営するためには、もはや法や規範の内面化は役に立たない。多様な市民の共存が私たちの社会の原理だし、そうである以上、価値観や規範意識の差異もそのまま放置するしかない。そこで登場したのが、法や規範に期待するかわりに、たとえ規範意識の欠片もない人間(その象徴がテロリストだ)が現れても制御を失わない社会を作るという、新たな目的である。それは具体的には、市民活動の透明性を高め、個人情報を集積し、犯罪の可能性をあらかじめ最小化するようなアーキテクチャを整えることで、制度工学的に実現されると考えられている。前回の連載では、この変化を、「規律訓練型権力」から「環境管理型権力」へ、「内包社会」から「排除社会」へ、というキーワードで捉えておいた。

国家のイデオロギー装置

問題をまた別の側面から見てみよう。従来の規律訓練型社会では、価値観や規範意識の統合、古い言葉を使えば、「イデオロギー」の統合が秩序維持の要となる。国家は、教育機関やメディアを通して、何らかのイデオロギーを国民ひとりひとりに注入しなければならない。

このように記すとファシズムやスターリニズムを連想されるかもしれないが、国民の多くが価値観を共有していたという点では、高度経済成長期の日本もあまり変わらない。近代国家は、市民ひとりひとりに「おまえは何々国の臣民だ、したがってこれこれの規範を共有せよ」と呼びかける。そして社会秩序を維持する。フーコーの師にあたるマルクス主義理論家、ルイ・アルチュセールは、そこで教育やメディアが果たす役割を「国家のイデオロギー装置」という言葉で呼んだ注1。文化研究やポストコロニアリズム、ジェンダー研究と呼ばれる人文系の分野では、この過程は「国民化」「臣民化」と呼ばれ、たいていの場合は非難の対象とされている。

ところが、いま到来しつつある環境管理型社会では、価値観や規範意識の統合が秩序維持の前提にならない。その背景には、幾度も繰り返しているように、もはやそのような統合が不可能であり、かつ必要とされていないという単純な現実がある。現代では「国家のイデオロギー装置」は従来のようには機能しない。教育の混乱は毎日のように話題になっているし、全国紙や地上波放送の求心力も衰えている。アルチュセールはイデオロギー装置の例として宗教機関も挙げていたが、その点で言えば、日本では、オウム真理教に代表されるような新々宗教の乱立もまたその失調の現れとして捉えられるかもしれない。この流れは、とても道徳や教養の復活で押しとどめられるものではない。

そして、このような状況は、具体的には、「メディア社会」や「情報化社会」が問題となり始めた一九六〇年代以降、少しずつ進み、携帯電話とインターネットの普及によって完成したコミュニケーションの多様化に起因している。現代社会においては、情報源が多数で、かつ個人間の情報交換の層があまりに厚いため、マスメディアの「呼びかけ」はかつてのように簡単には国民に届かないわけだ。

マクルーハンの錯誤

メディア論の文脈からすると、これはいささか皮肉な事態である。いまから四〇年前、カナダの思想家、マーシャル・マクルーハンは、ラジオやテレビのような視聴覚メディアの発達は、いずれ国境を越えた「世界村」を生み出すだろうと予言した注2。この予言は半ば的中している。彼の予言ののち現れたコンピュータ・ネットワーク(インターネットの前身であるARPAネットの稼働開始は一九六九年のことだ)は、いまや、ラジオやテレビよりはるかに緊密に世界中の市民を結びつけている。事実、世界村の構想はインターネットの出現により実現したと捉える論者も少なくない。

しかし予言には外れた部分もある。マクルーハンの考えでは、地理的な距離を克服し、大衆を直接に結びつける電子的コミュニケーションは、国境を解体し、世界中の文化を均質化し、「人間家族」を「部族の太鼓が響きわたる、狭く窮屈な単一の空間」へ導くはずだった注3。つまり彼は、良きにつけ悪しきにつけ、情報技術の発達は価値観や規範意識の統合(大きな物語の強化)を後押しすると考えていた。しかし、ここ一〇年ほどの状況を見るかぎり、現実はむしろ逆方向に進んでいるように思われる。情報技術の成熟は、ひとつの巨大な「世界村」を作るどころか、世界中に散らばった人々が独自の価値観に基づいて連絡を取り合い(その象徴もまたテロリストである)、小さな「村」を形成し、そのような多数の村が乱立し衝突しあっているような厄介な世界を生み出しつつある。高度情報化社会が世界規模での民主主義の実現を可能にする、という夢は一九六〇年代から現在まで一貫して語られてきたが、携帯電話やインターネットの普及は、むしろ、各個人が偏狭な価値観のなかに閉じこもる傾向を強化したと言うべきだ。

予言と現実のこの格差は、マクルーハンが「世界村」のインフラとして想定したものが放送メディアだったのに対し、現実にその状況を担ったのが、コンピュータ・ネットワークだったという事実に起因している注4。連載第一回でも述べたように、インターネットとは、ラジオやテレビとは本質的に異なり、ユーザのコンピュータがサーバに要求を出し、それに応えて送られてきた情報を再構成することで成立する双方向型のメディアである。したがって、同じインターネットでも、そこでユーザが得る情報は各人の好みに応じて異なる。携帯電話やユビキタス・コンピュータも、ユーザのカスタマイズによってはじめて力を発揮する装置である。さらに現在では、従来の放送メディアも、そのような双方向性をモデルとして変質し始めている。二十一世紀の情報技術は、二十世紀のマスメディアと異なり、価値観や規範意識の共有に適していない。

前回までの連載では、規律訓練型社会から環境管理型社会への変化を、おもにポストモダン化や多文化主義化といった人文的な視点で捉えてきた。しかし、同じ変化は、以上のようなメディア環境の変化とも深く連動している。二十世紀のマスメディアは、匿名の視聴者にひとつのメッセージを分配する。二十一世紀の情報技術は、認証されたユーザに、それぞれカスタマイズされたサービスを提供する。その結果、現在のメディアからは、価値観や規範意識の共有状態を作り出す力が徐々に失われつつある。そのかわり、いまメディアが、というより、行政も含めた情報サービス産業一般が獲得しつつあるのが、ユーザから差し出される膨大な量の個人情報なのだ。環境管理型権力は、この新たな蓄積のうえに張り巡らされている。

二十世紀から二十一世紀にかけて、私たちを取り巻くメディアは、価値観や規範意識を伝える「媒体」としての存在から、個人情報を収集する装置へと大きく変貌を遂げている。言い換えれば、メディアに触れる私たちの立場は、匿名の受動的存在(視聴者)から、個人情報との交換で特定のサービスを選び取る能動的存在(ユーザ)へと変わりつつある。ラジオやテレビの視聴は受信装置があればだれにも可能だが、インターネットで音楽や映像のストリーミングを楽しむためには、こちらのマシンのスペックや通信環境、メールアドレスなどの情報をサーバに通知しなければならない。規律訓練型社会から環境管理型社会へ、イデオロギーの共有から個人情報の管理へという変化は、実は、このようなメディア的変化の裏面(表面?)なのである。

多様性を支える情報管理

規律訓練型社会はイデオロギーの統一を必要とする。環境管理型社会はイデオロギーの統一を必要としない。これは言い換えれば、後者の社会では、特定のイデオロギーと秩序維持の目的が切り離されているということである。したがって、ポストモダンの社会は厄介な二面性を帯びている。それは一方では、近代的な「大きな物語」の強制を放棄し、多様な価値観を歓迎する寛容な社会である(多文化主義)。ところが他方では、そのような多様性を安全に楽しむために、たえず個人認証と相互監視を必要とする強力な管理社会でもある(セキュリティ化=排除社会)。このどちらに注目するかによって、ポストモダンの捉え方はまったく変わってしまう。

たとえば日本では、いまから二〇年ほど前、ポストモダンの社会構造を特徴づけるものとして「リゾーム」という言葉が流行したことがあった注5。リゾームとはフランス語で「根茎」を意味し、現在なら「ネットワーク」とでも呼ばれそうな、無数の結節点が多方向に連絡している複雑な構造を指している。このイメージは誤りではないが、本論の枠組みからすれば、消費社会の水準にのみ注目した一面的な見方だったということになる。問題は、その消費の多様性を支えているシステム、レッシグの言う「アーキテクチャ」なのだ。消費社会の多様性が緻密な情報管理によって支えられているという現実は、コンビニや宅配便のシステムを考えればすぐに分かる。

多様性と情報管理の二層構造を象徴するものとして、上述のようなメディアの変化を念頭に、ひとつ分かりやすい例を挙げておきたい。いまマイクロソフト社は、「パスポート」と呼ばれる個人認証サービスの拡大をめざし、他企業や各種団体との軋轢を強めている。これはひとことで言えば、マイクロソフト社が個人情報を集中管理し、単一のIDとパスワードによって多数の電子商取引サイトの認証を受けられるというシステムである。「パスポート」はすでに無料メールなどマイクロソフト社の多くのサービスで導入されているので、無意識に利用されている方も多いかもしれない。

この構想に対しては、すでに米国では、専門家や市民団体から情報管理面の不備が指摘されている注6。それだけでも問題なのだが、むしろここで注意しておきたいのは、この「パスポート」が、同社がいま準備している「.NET」(ドット・ネット)と呼ばれる統合サービスの一部だということである。このサービスが実現されると、ブラウザのお気に入りやメーラのアドレス帳をはじめとして、多くの個人情報がMSN(マイクロソフト社が運営するポータルサイト)側のサーバに保存され、必要に応じて呼び出されるかたちになると考えられている。その一端はWindowsXPに標準搭載されているMSN Explorerでも体験できるが、これはつまり、自宅や社内のPCにばらばらに保存されている情報をすべてオンライン化し集中管理することで、場所や機種に関係なく共通の作業環境を提供しようという構想である。

私たちの多くは、いまだに、目の前のコンピュータと、ネットワークに繋がれた無数のコンピュータを区別して考えるのに慣れている。しかし、通信速度の向上(ブロードバンド化)にともない、そのような区別には実質的な意味がなくなりつつある。それほど遠くない将来には、デスクトップに現れた文書や映像が、足元のハードディスクに格納されているものなのか、それとも数千キロ離れたサーバから転送されてきたものなのか、一般のユーザには区別がつかなくなるだろう。

そのような技術に裏打ちされ、私たちの社会がいま向かいつつあるのは、このマイクロソフト社の構想に象徴されるように、民族も言語も文化的背景も異なる無数のユーザが、固有のIDとパスワードを打ち込むことで、世界中どこにいても自宅と同じ環境とサービスを享受できる、ある意味で夢のような情報インフラの整備である。このヴィジョンは、マクルーハンの「世界村」と似ているようでいて、決定的なところが異なる。現在のユーザは、同じネットワークに繋がっていても、みな異なった画面、異なった世界を前にしている。そのかぎりでは社会の多様性は促進される。そしてまた、検索エンジンやフィリタリングの向上によって、ウェブの多様性はむしろ上昇したようにも見える。しかし実は、その多様性は、ユーザがみな個人情報を譲り渡すことで実現されているのだ。

ポストモダンの二つの層

多様性の受容と情報管理の徹底。この二つの傾向が共存することは、読者によっては矛盾だと感じられるかもしれない。しかしそこには矛盾はない。というのも、ここで問題とされている新たな管理は、オーウェルが描いたビッグ・ブラザーと異なり、もはやイデオロギーの水準と関係しない、つまり、価値観や規範意識と関係しないからだ。

価値観は多様であっていい、市民的自由も経済的自由もできるかぎり認める、にもかかわらず、だれがいつどこで何をしたのか、その情報だけはつねに収集しておき、必要とあらば特定の個人の生活に大幅に介入する。しかも、その介入を、前回の最後で自動改札機を例に挙げて述べたように、介入と意識させないかたちで行う。それがポストモダン社会を支える環境管理型権力の特徴である。

多様性の層と情報管理の層、イデオロギーの層とセキュリティの層、すなわち、寛容の原理が支配する層と排除の原理が支配する層。私たちの社会がこの二つの層の乖離で特徴づけられるというと、何を抽象的なことを、と反発を抱かれる読者も多いかもしれない注7。確かにこれは抽象的な話である。イデオロギーの層、といったところで、別にそれが目に見えるわけではない。しかし、このような見方を導入することで、新たに見えてくる状況はある。

スペクタクル化する政治

たとえば、ふたたび一年前の9・11について考えてみよう。あの凶悪なテロが、一〇年に一度の世界史的事件だったことに異論のある読者はいないだろう。にもかかわらず、あの事件は、発生当初からどこか異様な嘘くささを漂わせていた。世界貿易センタービル(WTC)が炎上し崩壊する映像は、だれもが指摘したように近年のハリウッド映画を想起させたし、また、その後のブッシュ大統領の発言にも、西部劇の主人公のような過剰な自己演出が目立っていた。そして、その反面、これまた二流の戦争映画のように、敵方らしきアフガニスタンの人民の姿はほとんど画面に映らない。

政治が映画に近づき、現実が虚構に近づくのは、決していまに始まったことではない。ボスニア紛争の報道を米国の広告代理店が請け負い、セルビア非難の国際世論を導くように巧みに演出していたことは有名な話である。マスメディアの爛熟が政治に強いたこのような変化は、現代思想の領域では、「スペクタクル化」あるいは「シミュラークル化」と呼ばれ、三〇年以上前から議論されている注8。スペクタクルは「見せもの」、シミュラークルは「にせもの」という意味だが、9・11は、この文脈で見ると、政治のスペクタクル化=シミュラークル化がますます進んでいることをあらためて印象づける事件だったと言える。

そしてこのような状況は、言論の質にも影響を与えている。映画的な現実からは、封切映画の感想のような言論しか出てこない。遠く米国から送られてくる報道映像を見て、テロリストの蛮行に憤ろうが、米国の独善性に怒りを新たにしようが、「文明の衝突」的な物語に興奮しようが、それらはスペクタクルへの反応にすぎない。『アルマゲドン』を見て涙を流せる観客と流せない観客がいるように、WTCの崩壊映像を見ても、アフガニスタン空爆を支持できる観客と支持できない観客がいる。

本来ならそのような「感想」(=政治的立場)の相違を調整するためにこそ言論があるはずだが、筆者の印象では、9・11について、日本の論壇はその限界をほとんど超えることができなかった。そのことを象徴的に示しているのが、宮台真司と評論家の宮崎哲弥が今年の春に行った特別企画だと言えるだろう注9。そこで二人は「9・11によって炙り出された日本の言論界の再配置」をテーマに対談を行い、二〇人を超える論壇人の立場を四つの象限に押し込んでいる。これは裏返せば、日本の論壇では、9・11は、せいぜい関係者の地図を「炙り出す」くらいの役割しか果たせなかったということを意味している。政治的言説は、もはや、映画の感想と同じくらいの深さしかもたない。

思想の限界とセキュリティの台頭

とはいえ、現実は映画と異なる。9・11の報道がいかにスペクタクル化され、言論がいかに空疎になっていたとしても、何千人もの死者の存在は消えないし、自爆テロが照射した現代社会の脆弱性は変わらない。私たちはその問題に鋭敏に対処する必要があるし、実際、連載第一回で触れた米国のテロ対策法や、やはり昨年秋に欧州評議会で採択されたサイバー犯罪条約(内容はのちにあらためて触れる)など、具体的な対応策もつぎつぎに繰り出されている。

その流れをひとことで総括するとすれば、第一回の繰り返しになるが、国家安全保障から公安、情報管理まで連続した広い意味での「セキュリティの強化」ということになる。この点から見れば、通信傍受法の初適用や歌舞伎町の監視カメラ設置に始まり、個人情報保護法案をめぐる激しい応酬、住基ネットの稼働開始、企業サイトからの個人情報の漏洩といったニュースが相次ぐ今年の日本の状況も、また、はっきりと「9・11以後」の様相を呈している。情報化とセキュリティ化の交差点に立ち上がる新しい秩序維持のシステム=環境管理型権力は、いまや本格的に動きはじめている。私たちは、本来、このような問題をこそ、9・11以後の「新たな政治」として話題にしていかねばならない。ところがこの一年で明らかになったのは、むしろ、従来の人文的・社会科学的な枠組みが、その変化にほとんど対応できないという深刻な事態なのである。

社会学者の大澤真幸は、この事態をまた別の角度から論じている。彼は最近の著書で、9・11は、現存する社会思想の無力さを突きつけたと分析している注10。そこで挙げられている思想は、具体的には、コミュニタリアニズム、リベラリズム(モダニズム)、多文化主義(ポストモダニズム)の三つである。すなわち、「共同体の価値観を重視する立場」「普遍的合理性を信じる立場」「多様な価値観の共存を認め、絶対的な寛容を原理とする立場」の三つの立場だ。これらの立場は、言論の世界では、冷戦崩壊以降、それぞれ激しい論争を繰り広げてきたことが知られている。

ところが大澤によれば、9・11の勃発により、それらの類似性が明らかになってしまった。というのも、この一年間、コミュニタリアンもリベラリストも多文化主義者も、テロリストへの報復以上に有効な代替案を提出できなかったからである。言い換えれば、9・11以後の世界において、それら三つの社会思想は、いずれも批判的役割を担えなくなってしまったわけだ。

大澤はこの状況の原因を、そこに共通して伏在する前提に求めている。つまり、9・11は、それら社会思想の欠陥を暴いた「思想的」な事件だと位置づけられている。その根拠となる議論は大澤自身の著書を見ていただきたいが、筆者としては、むしろ、原因はもっと単純で、だからこそ厄介なのではないかと考えている。論壇あるいは社会思想のこのような無力は、まさに、前述した現代社会の特徴、イデオロギーの領域とセキュリティの領域の乖離に起因しているのではないだろうか。

幾度でも繰り返すが、ポストモダン化した現代社会では、価値観や規範意識の多様性は最初から前提となる。そのうえで秩序維持のアーキテクチャが模索される。したがって、いままで「政治的」と言われてきた問題、つまりイデオロギーをめぐる立場の相違は、皮肉なことに、秩序維持の目的と強い関係をもたなくなってしまう。たとえば9・11を例に取るならば、現代社会の思わぬ脆弱性が明らかになってしまったいま、対テロ戦争の遂行に賛成にせよ反対にせよ、親米にせよ反米にせよ、まず自分たちの安全を確保しなければならない、その一点には異論を唱えようがなくなってしまう。実際に日本ではそうだったし、大澤の分析を見るかぎり、国際的にも状況は同じだと思われる。コミュニタリアンやリベラリストが戦争を支持せざるをえず、多文化主義者の戦争反対キャンペーンが空疎に響くのは、まさにこの安全への要求が、そのようなイデオロギーよりも深いレベルで発せられているからなのだ。それは、思想や価値観といった人間的な部分(生き方に関わる部分)を飛び越えて、私たちの動物的な生存本能(存在自体に関わる部分)に直接訴えかけてくる。

9・11の教訓とは、ざっくばらんに表現すれば、「理念や価値観について議論するのも結構だけど、まず市民の安全を確保しないと話にならないんじゃないの?」という身も蓋もないものである。これは特定のイデオロギーの敗北というより、むしろイデオロギーそのものの敗北だと捉えたほうがいいだろう。いかなる社会思想も、人間の生を前提とするかぎりにおいて、セキュリティの強化には原理的に反対できない。その無力を尻目に、私たちの社会は、環境管理型権力の網の目を着々と張り巡らしつつあるのだ。

配慮なしに生きられる世界

ポストモダン社会では、個人の価値観と社会全体の秩序維持、イデオロギーの問題とセキュリティの実現が切り離されている。この切断を理解することは、本論の主題とする「新しい権力」の性質を捉えるうえできわめて重要である。前回も強調したように、環境管理型権力は内面を必要としない。それはアーキテクチャのデザインを通して物理的に機能するので、対象の人間が何を考えていようと関係ない。価値観と秩序維持の切断はこの結果だが、それは言い換えれば、私たちの社会が、本質的な意味で人間を人間として(考える存在として)扱わない、人々の意識的な判断以前の部分を利用して秩序維持を図ろうとしている狡猾な社会であることを意味する。

次回は、環境管理型権力のもつこの性質について、「自由」の概念を再検討しながら考えてみたいと思う。とはいえ、本格的な議論に入る前に、ここでひとつ示唆的なエピソードを紹介しておきたい。

本論の主題のひとつは「セキュリティ security」である。筆者のような哲学系の研究者はすぐ語源を調べたがるものなのだが、じつはこの言葉も、語源を調べると興味深いことが分かる。「セキュア secure」とはもともとラテン系の言葉なのだが、これは、配慮や関心を意味する cura(英語のcareの語源でもある)に、欠如を意味する接頭辞 se が付されて作られたものだと言われている。つまり「セキュリティ」とは、語源的には、配慮や関心がない状態(without care)を意味する言葉なのである。とすれば、「セキュリティを高める」とは、ただ安全性を高めるだけではなく、世界に対する配慮を必要としない状態を作りあげること、人々ができるだけ何も考えずに生活できる世界を作りあげる行為を意味することになる。

言うまでもなく、私たちは言葉に縛られて生きているわけではない。大部分のひとは、セキュリティの語源のことなど一生に一回も考えないに違いない。したがって、この言葉遊びを過大に評価するつもりはないが、にもかかわらず、ここまで議論を進めてきた筆者には、このような語源の存在が何か現代の本質を突いているように思えてならない。

セキュリティを高めること、それは前述のように、価値観や規範意識の選択以前の、動物的な部分に基づいた本能的な要求である。だからそこには世界への関心はない。セキュリティの強化を望むとき、私たちが念頭に置くのは、社会全体の利益や福祉ではなく、自分あるいは家族、せいぜい近しい友人何人かの安楽な生活である。そのためには異物は排除したほうがいい。マンションあるいはコミュニティの入口に監視カメラを設置し、警備員を配置し、出入車両のナンバーを記録し、訪問者の氏名や住所が(たとえば住基カードの提示を義務づけることで)自動的に開示されるようなシステムを作れば、確かにその内部は「安全」な空間になるに違いない。しかしその安全は、私たちが人間であるがゆえに備えていた、何か重要なものと引き替えにして得られているのだ。


(現在準備中)