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情報自由論第3回

規律訓練から環境管理へ

著者:東浩紀
初出:『中央公論』2002年9月号、中央公論新社


少し振り返っておこう。連載の第一回では、現代社会を特徴づける二つの流れとして「情報化」と「セキュリティ化」を挙げ、両者の交差するところに新たな権力の場所が立ち上がりつつあると論じた。続く第二回では、その権力の特徴として、万人が万人に行使する「遍在型」であること、および、遍在する情報処理装置に支えられた「技術依存型」「機械型」であることを指摘した。

詳しい議論は繰り返さないが、ここで再度思い起こしていただきたいのは、この新たな権力がジョージ・オーウェル的な「ビッグ・ブラザー」のイメージでは捉えられないということである。現代社会においては、市民の自由やプライバシーを脅かすのは国家だけではない。信販会社は住基ネットと同じく膨大な個人情報を蓄積しているし、Nシステムやカーニボーと同じ原理の監視装置は民生品の組み合わせでも簡単に作れる。実際、第一回でFBIの人相認識監視装置に触れたばかりだが、この原稿を書いているうちにも、すでに同種の装置が商品化されたという報道が現れている注1。いまやだれもが、最先端の情報技術を用いて、隣人の動向をかつてない精度で監視することができる。たとえば、将来の高級マンションでは、住民が自発的にセキュリティ会社と契約し、訪問者の人相をたえず登録情報と自動照合し、場合によっては入館を拒否する、というようなサービスが一般化する可能性がある。この新たな時代の権力については、全体主義的なビッグ・ブラザーではなく、無数の「リトル・ブラザー」のイメージこそが相応しい。

二十世紀のあいだ幾度も現れたビッグ・ブラザーの危険性に対しては、私たちは十分な知識をもっている。しかし、二十一世紀の世界を特徴づけるリトル・ブラザーの危険性に対しては、私たちの社会はあまりに無警戒である。私たちの多くは、制服警官が住宅地の街角で目を光らせ、私文書が開封され検閲される社会には常識的な嫌悪感を抱いている。にもかかわらず、集合住宅の入口から駅の構内、コンビニの店内まであらゆる場所に監視カメラが設置され、携帯電話やATMの利用履歴がデータベース化される社会にはあまり反発を覚えない。前回も述べたように、この齟齬は、権力の変容に、私たちの想像力が追いついていないために生じている。

リトル・ブラザーによる機械型の監視は、情報化を背景としたエンジニアの思惑と、セキュリティ化を背景とした自己防衛的な市民感情に支えられて、いま急速に増殖し暴走しつつある。ではその増殖をどのように制御していくべきなのか。今後はその方策に議論を移していきたいが、そのためには、まず、現状確認を超えて、いささか抽象的な枠組みを導入する必要があるだろう。

筆者はここまで、情報化時代の新しい権力が人々から自由を奪い取る、とかなり無造作に記してきた。しかし、そこで「権力」や「自由」と呼ばれているものの実質は何なのだろうか。以下数回では、少し根本に遡って考えてみたい。

権力とは何か

まず「権力」から考えてみよう。手元の事典によると、この言葉は学問的には、「AがBに対して、Bが本来やりたくない何かをさせることができるとき」の二者間関係を示すものとして定義されているらしい注2。確かに私たちは、日常的に、まさにこのような意味で「権力」という言葉を用いている。親が子に対して、教師が生徒に対して、経営者が従業員に対して、国家が市民に対して「権力をもつ」と述べるとき、念頭に置かれているのはそのような強制力の存在だ。

しかし、本論を進めるうえで重要なのは、権力についてのまた別の考え方である。フランスの哲学者、ミシェル・フーコーは、一九七五年の著作『監獄の誕生』で興味深い権力論を提案した。彼によれば、権力の形態は時代とともに移り変わる。近代社会の権力は、もはや、抑圧者が非抑圧者に何かを強制するといった単純なものではない。十九世紀以降の権力は、国家から市民に対して一方的に働くものではなく、市民ひとりひとりの価値観を変え、国家的な目的に自発的に従っていくような行動様式を作り上げる複雑な装置として機能している。

この議論は多くの研究者に衝撃を与えた。実際、抑圧される側が抑圧する側の目的に自発的に従う、などという主張は常識に反している。しかしフーコーが指摘したのは、それ自体としてはごく当たり前の現象である。

たとえば私たちは、赤信号が点灯すれば車を止める。さもなければ事故の可能性があるし、罰則もあるからだ。しかし、たいていのドライバーは、深夜で歩行者が見あたらず、近くに警官がいなくても、赤信号が点灯すれば車を止めるだろう。もしそのような遵法精神が期待できなければ、交通秩序を維持するためのコストは膨大なものになり、車社会は崩壊してしまう。交通警察は信号を無視するドライバーを拘束することができる。私たちはそれを権力だと感じる。しかし同じ秩序は、その強制力だけではなく、各人の遵法精神によっても保たれている。ならば、その精神を植え付ける社会制度、それもまた権力の一部と見なそうではないか、というのがフーコーの提案である。

権力には、人々に特定の行動を選ばせる強制的な側面だけではなく、その行動様式を選ぶように価値観を変えていく「構成的」な側面がある。このような視点に立てば、交通秩序を支える権力は、もはや警察庁や国土交通省の占有物だと考えることができなくなる。同じ権力は、かたちを変えて、教習所のプログラムから、交通事故の報道姿勢、さらには「横断歩道は左右を見てから渡りましょう」と教える小学教師の語り口まで、あらゆる場所に宿っていることになるだろう。近代社会の権力は、日常的にイメージされるような一極集中型で強制型のものではなく、遍在型で主体構成型のものなのだ。

規律訓練型権力

そしてフーコーは、このような権力は「規律訓練」の場を通じて作動すると論じた。『監獄の誕生』は、ひとつ分かりやすい例を挙げている。それは、イギリスの社会思想家、ジェレミー・ベンサムが十八世紀末に考案した特殊な監獄様式である(図)。「一望監視施設」(パノプティコン)と呼ばれるこの様式では、中心に塔が、周囲に円環状の牢獄が配置されている。牢獄は扇状の小さな独房に区分けされ、それぞれ塔に向かって窓が開かれている。塔からは独房が監視できるが、光量と角度の関係で独房からは塔の内部は見えない。つまり、囚人は、つねに監視される可能性に曝されているが、しかし現実に監視されているかどうかは分からない。看守がいようがいまいが、つねに架空の視線に怯えて暮らさねばならない。結果として、彼らは、監視の視線を徐々に内面化させていくことになる。つまり、自分で自分を監視するようになる注3

そしてフーコーによれば、この「視線の内面化」こそが、規律訓練型権力の雛型をなしている。近代以前においては、監視者はつねに被監視者の前にいなくてはならなかった。権威や暴力を根拠に作動する単純な権力は、その根拠が失われればすぐに消えてしまうからだ。しかし近代では監視者は不在でもよい。というよりも不在のほうがよい。監視される対象のなかに監視の視線が内面化されたとき、そのときこそ監視はもっとも効率よく機能する。

この表現は逆説に響くかもしれないが、考えればすぐ分かることである。たとえば小学校の教室では、教師がつねに目を光らせる必要がある。しかし、中学に上がり、教師の視線を内面化した生徒は、教師が不在でも学習を続けるようになる。義務教育は、知識や技能の伝達というより、そのような視線の内面化を目的にしている。近代社会の市民は、国家に抑圧される受動的な存在ではなく、国家に奉仕するように規律訓練された能動的な存在なのだ。その規律訓練(discipline=しつけ)は、学校や工場、監獄、病院など、あらゆる場で行われている。

『監獄の誕生』の研究は、おもに十八世紀から十九世紀にかけてのフランスを対象に行われた。しかしそこから導かれた規律訓練型権力の概念は、時代と地域の限定を超えて、近代国家の限界や欠陥を分析するうえで幅広く有効であることが知られている。実際に私たちは、フーコーの名前など知らなくても、このような権力の性質にどことなく気がついている。

たとえば、本論でも幾度か言及したオーウェルの『一九八四年』は、権力と視線の関係をそのまま小説化したような作品である。そこで描かれる未来社会では、公共空間と私室とを問わず、あらゆる場所に「テレスクリーン」と呼ばれる監視カメラ兼スクリーンが設置されている。街のそこかしこには「ビッグ・ブラザーはあなたを見ている」という標語が貼られ、人々はつねに監視に怯えているが、肝心のビッグ・ブラザーは実在しない。そして小説の終わりで明らかになるように、この世界では、ビッグ・ブラザーに服従するだけでは十分ではない。彼を内面から愛さなければならない注4。『監獄の誕生』の二〇年以上前に発表された小説であるにもかかわらず、ここには、一望監視施設の構造も規律訓練の本質も明確に記されている。オーウェルが想像力で抉りだした近代の本質を、フーコーは、哲学者としての洞察と歴史調査をもとに、厳密な概念に練り上げたと言えるだろう。

ドゥルーズの指摘

ではこの権力論はいまも有効なのだろうか。フーコーは一望監視施設を過去の問題とは考えていなかった。『監獄の誕生』の出版直後のインタビューで、彼は、現代社会の多くの制度が一望監視施設の応用で作られていると述べている注5

しかしこの主張にはのち疑念が寄せられている。フーコーと親しかった哲学者、ジル・ドゥルーズは、一九九〇年に短い論考を発表している注6。彼によると、規律訓練という権力形式は、二十世紀の初めに頂点に達し、現在はすでに衰退している。かわりに台頭しつつあるのは、情報処理とコンピュータ・ネットワークに支えられた「管理型」と呼ぶべき新しい形式である。規律訓練型権力は、人々に規範を植え付けるため学校や工場のような監禁環境を必要としたが、管理型権力はそのような場を必要とせず、個人の行動を数字に置き換えて直接に制御する。

たとえばドゥルーズが例に挙げたのは、位置情報と個人認証を結びつけた緩やかな監視システムの可能性である。そこでは、決められた障壁を解除する電子カードを所持することで、各人が自分のマンションや地域に自由に出入りすることができる。しかし、特定の日や時間帯には、同じカードが拒絶されることもある。このような秩序維持の方法は、門番や警備員が巡回しているわけではなく、かつ住人のいかなる自己監視(視線の内面化)も必要としないという点で、強制型とも規律訓練型とも異なる。

残念ながら、問題の論考では、ドゥルーズはその新たな権力の特徴についてきわめて抽象的な指摘しか行っていない。彼はその五年後に自殺してしまい、フーコーもすでに一九八四年に亡くなっているので、規律訓練型権力と管理型権力の差異については、考察が深まることなく放置されてしまった。しかしこの着想は、その後も多くの研究者を惹きつけ、さまざまな議論が交わされている。

内包社会から排除社会へ

たとえば日本では、社会思想家の酒井隆史が注目すべき研究を行っている。彼は昨年出版した『自由論』で、この権力の変容を、ポストモダン化やセキュリティ化の流れと関連づけている。連載第一回でも触れたように、「ポストモダン化」とは、社会の構成員全員が共有する行動様式や価値観(大きな物語)が徐々に失われていく過程を意味する。これは言い換えれば、多様な市民をひとつの行動様式へと動機づけ、監視の視線を内面化させる規律訓練がうまく機能しなくなったということである。文化現象としての「ポストモダン化」や「大きな物語の崩壊」は、社会制度のレベルでは、規律訓練の失墜と連動している。この現象は、論壇誌でも「教養の崩壊」「道徳の崩壊」として繰り返し問題にされているので、すでに親しまれている読者が多いだろう。

このような変化は、伝統の崩壊や堕落として否定的に捉えられることが多い。思想系の論者でもそのような意見が多いし、論壇的にもそうである。しかし酒井はそれを、単なる秩序崩壊ではなく、近代とは別の新しい秩序の台頭だと捉えている。

酒井によれば、単一の価値観を共有する近代社会では、異常者や犯罪者をできるだけ矯正し、社会内部に同化しようとする圧力が働く。その圧力を実現するのが規律訓練の場である。酒井はこのような社会を、イギリスの犯罪学者の言葉を借りて「内包社会」と呼んでいる。多様な価値観の共存を肯定するポストモダン社会では、逆に、異常者や犯罪者をあらかじめ隔離し、多様性の前提となる消費の場を安全に保とうとする圧力が働く。それを実現するのが管理型権力の装置であり、セキュリティ意識の高まりである。こちらは「排除社会」と呼ばれる。

近代の内包社会とポストモダンの排除社会では、犯罪政策の目的が大きく異なる。そしてその差異は、大きな物語が崩壊したあと、私たちの社会がどのような原理に基づいて社会秩序を維持しようとしているのか、その方向性を端的に示している。さきほどのドゥルーズの例を思い出してほしい。彼はゾーニングによる監禁状態と電子カードによる管理を明確に分けた。監禁状態で行われる規律訓練は犯罪者の内面に踏み込む。囚人は自室から出られないことの意味を学び、規範を内面化する。しかし、電子カードによる管理は、そのような内面を必要としない。囚人からすれば、扉はただ閉まり、開くだけであり、その事実から何も学びようがない。酒井はつぎのように記している。

パノプティコンが集約するような規律訓練の戦略は、パノプティコンという装置に組み込まれた超越論的まなざしを個体のうちに折り畳ませ、それによって「魂の鍛錬」を遂行すべく作動した。だが現在のモニタリングはもはや「内面をもった個人」のような「センチメンタル」なものには関心を示すことはない。それはまなざしと相関的に主体を構成したりはしないのだ。主要な問題は、犯罪を根絶する人道主義的課題ではいっさいなく、犯罪を特定のゾーンに封じ込めるなどして、それによって社会の一部に与えるリスクを最小化することなのだ。注7

市民革命と産業革命以降、私たちの社会は、単独の主権者がすべてを見渡し、権威と暴力で秩序を維持するにはあまりにも複雑になっている。したがって近代では、権力は「遍在型」で「主体構成型」の形式を取った。言い換えれば、上からの秩序を一方的に押しつけるのではなく、草の根から自発的に秩序が立ち上がるような方法を取った。それは具体的には、市民ひとりひとりに監視の視線を内面化させる「規律訓練」の過程を通して作動した。

しかしこの数十年のあいだに、また別の権力形式が台頭してきた。ドゥルーズが「管理型」と名づけたその権力は、規律訓練型と同じくあらゆる場所で働くが、発達した情報処理装置の力を借りるため、もはや主体の内面に踏み込む必要がない。言い換えれば、規範の内面化が必要ない。

近代からポストモダンへ、同化から多文化へ、単数の大きな物語から複数の小さな物語の共存へ、内包社会から排除社会へといった変化のなかで、権力のかたちもまた大きく変わりつつあるのだ。

法とアーキテクチャ

本論は現代思想を解説する場ではない。それゆえこれ以上の紹介は控えるが、以上のような枠組みは、情報と法の現場で何が論点となっているのか、大雑把に整理するためにも有益である。

前回紹介したレッシグの議論を見てみよう。彼はネットワークに対する法的介入の必要性を認めている。しかしそれは、ネットワークの無秩序を法の秩序で押さえ込もうといった単純な理由からではない。その根拠となるのは、行為の制約には「法」「社会的規範」「市場」「アーキテクチャ」の四つが関係するという興味深い洞察である。

たとえば喫煙は、未成年の喫煙のように法で規制されることもあれば、レストランでの喫煙のように社会的規範で規制されることもある。市場もまた制約条件になる。タバコの値段が上がれば喫煙を断念する人々が増える。さらに加えて、タバコの技術的側面も条件になる。フィルタの有無や煙の量などに応じて、喫煙が可能な機会は増減する。この最後のものが、レッシグが「アーキテクチャ」と呼ぶ要素である。

ネットワークでは、アーキテクチャはコード(プログラム)によって与えられる。たとえば現状のインターネットは、しばしば著作権の敵だと見なされている。そこでは画像も音楽も複製しほうだいだと言われる。しかし私たちは、技術的には、いまよりもすぐれた著作権管理機能を備えたシステムを開発することができる。そして、将来の著作物は、その改良されたシステムをもつコンピュータのあいだでだけ流通するように制限をかけることができる。さらには、その延長線上で、著作の閲覧状態や画像の鑑賞状態がたえず著作権者によって監視されるシステムを作ることもできる。こうなってしまえば、もはや法も規範も関係ない。目的の著作物をハードディスクに保存し、不正に複製しようとしても、システムがそれを許さないのだ。これがすなわち、アーキテクチャによる規制の実現である。

アーキテクチャの規制は、実体物の世界でも有効であり、しばしば利用されている。レッシグは前述のタバコのほかにも、住民を分断する都市計画や、速度違反を減らすための街路の表面加工など、いくつか例を挙げている。

しかしネットワークの世界は、その自由度がはるかに高い。たとえば、ポルノや麻薬売買など、特定の情報を排除するフィルタリング機能を実装したブラウザを導入すれば、利用者にはそれら「悪質」な情報は完全に見えなくなってしまう。これは、従来の法や規範よりもはるかに完成度が高く、しかも反発を招きにくい規制である。そして情報化が進むとともに、それらネットワークのアーキテクチャは、実体世界の生活にも大きな影響を与えるようになっていく。このような状況を受けて、レッシグはいまコードは「権力」だと述べている注8。そしてその新しい権力は、市場の要請とエンジニアの熱意のもと、著作権管理や個人認証の充実へ傾きつつある。したがって彼は、法という古い権力によって、アーキテクチャという新しい権力の暴走を制限しようと提案したのだ。対立しているのは、秩序と無秩序ではない。二つの権力形式である。

レッシグの以上のような議論は、ネットワークに対する深い知識と憲法の研究、およびマイクロソフトの独占禁止法裁判への関わりから生まれてきた実践的なものである。にもかかわらず、その結論は今回紹介したドゥルーズたちの考察と深く通底している。レッシグは『CODE』の補遺で、アーキテクチャは「主観化がまったくなくても制約できる」のが特徴だと述べていた。「アーキテクチャ上の制約は、その対象者がその存在を知ろうと知るまいと機能するけれど、法や規範は、その対象者がその存在についてある程度知っていないと機能しない」注9。ここで「アーキテクチャ上の制約」と呼ばれているものの特徴は、前述の管理型権力の特徴にきわめて近い。

だとすれば、一〇年前には抽象的にしか語られなかった管理型権力の作動現場を、インターネットが整備されたいま、レッシグが抉りだしてきたとは言えないだろうか。そして逆に、その具体例を通して、フーコーやドゥルーズたちの洞察を再読することはできないだろうか。情報化とセキュリティ化の交差するところに「新しい権力」が立ち上がる、という問題設定は、実はこのような思想的文脈に繋がっている。

環境管理型権力の台頭

規律訓練型権力は法と規範に宿る。管理型権力はアーキテクチャに宿る。前者は視線の内面化を必要とし、後者は必要としない。そして私たちの社会は、人々の行為を制限し、公共秩序を保つため、ますます後者の方法に依存し始めている。

最後に身近な例を挙げて終わることにしよう。ドゥルーズが記したシステムは、すでに私たちの社会ではありふれている。たとえばJRや私鉄の自動改札機がそうである。三十代以上の読者なら多くのひとが思い当たるだろうが、かつて、中高生の無賃乗車(いわゆるキセル)は深刻な問題だった。その方法は、定期券を利用した巧みなものから、駅員の注意が逸れた隙に改札を強行突破するものまで多様だったが、いずれにせよ、学生の創意工夫と駅員の監視のいたちごっこが延々と続いていた。

レッシグ風に考えれば、この軽犯罪を減らすには四つの方法がある。まずは法的規制、つまり重罰化である。つぎは社会的規範による規制、すなわち、家庭や学校で無賃乗車の犯罪性をきちんと教え、子どものころから叩き込むという方向だ。この両者は規律訓練を前提としている。法や規範を教育し、内面化させる制度が機能しなければ、この規制は失敗する。実際、当時の中高生は、キセルが違法行為であることなど頭の片隅で意識するていどで、自分の行為を制約するものと感じていなかった。正規運賃乗車のための規律訓練は機能不全に陥っていたのである。そして三番目は市場の利用、つまり、運賃を極端に安くし、キセルへの動機づけを減らすという解決だ。しかしこれは鉄道会社に大きな損害を与える。

自動改札機の導入はこれらの問題を解決する切り札である。自動改札機が導入された改札口では、キセルを試みようとしてもその可能性がない。入場記録のない定期券では出場できないし、切符をもたず強行突破しようとすれば、改札機の上を乗り越えるか下をくぐるか、かなり奇異な行動を採らざるをえない。しかもその規制は、切符の形態が、磁気券からプリペイドカードへ、さらに個人認証付きのICカードへと変わるにつれ、ますます完成度を上げている。これが四番目の方法、アーキテクチャによる規制である。私たちの社会は、このような局面でも、法と規範による規律訓練を放棄し、アーキテクチャによる管理へと確実に重点を移している。そしてその管理を可能にしているのは、膨大な情報を処理する機械群である。

ドゥルーズは規律訓練と管理を対照させた。しかし「管理」とはあまりに広い言葉で、議論を拡散させてしまうおそれがある。新しい管理型権力は従来の規律訓練型権力と区別されねばならないが、「管理」という言葉を使うかぎり、二十世紀の全体主義こそが管理社会の典型だったのではないか、などという混同も生じてしまうだろう。したがって、以下では、「アーキテクチャ」を「環境」と意訳して、今回説明したような意味での管理を「環境管理」と呼ぶことにしたい。この新しい権力は、人々の内面を経由することなく、生活環境を直接に変える。

視線の内面化による規律訓練を通した秩序維持から、個人認証と情報処理による環境管理を通した秩序維持へ。これはおそらくは、ポストモダン化が進み、単一の規範では支えきれないほど複雑化してしまった現代社会の不可避の選択である。冒頭で記したような「リトル・ブラザー」が乱舞する社会、集合住宅の入口から駅の構内、コンビニの店内まであらゆる場所に監視カメラが設置され、携帯電話やATMの利用履歴がデータベース化される社会が到来するのは、その当然の帰結にすぎない。したがって、その流れをたやすく否定することはできない。しかし逆に、だからこそ、私たちはその暴走を制御する知恵を身につけなければならないのだ。


(現在準備中)