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情報自由論第11回

ネットワークに接続されない権利(前編)

著者:東浩紀
初出:『中央公論』2003年6月号、中央公論新社


情報技術の二面性

情報技術は、私たちの自由を拡大し、同時に脅かす。繰り返すが、この二面性は、国家対市民や抑圧者対非抑圧者といった単純な図式で捉えられるものではない。つまり、市民が情報技術を手にすれば豊かなコミュニケーションが開け、逆に国家や企業が技術を手にすれば市民は管理下に置かれる、といった表面的な話ではない。問題はもっと原理的なのだ。

たとえば、近い将来、多くの携帯電話にGPSが付けば、事前に友人や同僚の番号を登録しておき(むろん先方の承諾を取る必要がある)、一定の距離以内に近づいてくると自動的に告知が来るようなサービスが現れるかもしれない。このサービスは、思わぬ出会いを用意し、待ち合わせの自由度を上げ、人々のコミュニケーションを大幅に豊かにするだろう。しかしそれは、同時に、子どもや犯罪者を監視する簡便な手段にもなる(彼らに対しては位置情報の非開示の自由は制限されるだろう)。事実、PHSを用いて児童や徘徊老人の現在位置を確認するサービスは、すでに商用化されている。だれかが近くに来たら教えてほしいと願うひとは、そのだれかに会いたいと思っているのかもしれないし、会いたくないと思っているのかもしれない。同じ技術でも、前者の動機で使えば多様性の触媒になるし、後者の動機で使えば管理の担い手になる。

これは、技術そのものは価値中立的であり、良い意図で使えば良い効果を発揮するが悪い意図では反転する、といった話とも異なる。私があなたに会いたいと思っても、あなたは私に会いたいと思っていないかもしれない。こちらにはコミュニケーションの拡大と感じられることが、むこうには束縛と感じられるかもしれない。そしてその関係は、別のときには逆転するかもしれない。

一例として、社員全員が携帯電話をもち、ウェブ上でスケジューラを共有し、固定のオフィスや勤務時間をもたないフレキシブルな会社組織を考えてみればいい。それは、従来の組織より自由と感じられるときもあれば、不自由と感じられるときもあるはずだ。同じ人間が、同じ装置を同じように使用していても、あるときには多様性の拡大を感じ、別のときには束縛の強化を感じる。問題は技術を使用する主体の差異ではないし、その意図の善悪でもない。行政が設置した監視カメラが私を自由にしてくれることもありうるし(通学路や商店街の安全が確保されればコミュニケーションは拡大する)、友人の写メールが私の生活を窮屈にすることもありうる(カメラ付き携帯電話が普及した世界とは、だれもが盗撮カメラと放送局を備えた世界である)。両者は切り離すことができない。ブロードバンド、無線ICタグ、ユビキタスといったバラ色のキーワードは、幾度も繰り返しているように、そのまま監視と管理のインフラにもなる。

それでは、なぜ情報技術はこのような二面性を帯びているのか。前回までの議論で明らかになったように、それは実は、私たちの生がそもそも二面的だからである。私たちはつねに「人間的」「主体的」「能動的」に「市民」として生活しているわけではない。むしろ、私たちの生活の大半は、目の前に積まれたタスクを「動物的」に惰性でこなし、与えられた商品やメディアで何となく渇望を満たしていく、「非主体的」で「受動的」な「消費者」としての時間で満たされている。アーレントの言葉を使えば、私たちの生は、「活動」の領域と「労働」すなわち「消費」の領域とに大きく二分されている。

そして、情報技術革命がもたらした個人のエンパワーメントは、この両者の特徴をばらばらに強化し先鋭化する役割を果たしている。言い換えれば、情報社会の到来は、人間をより人間的にすると同時に、ますます動物的にもする。生活環境に埋め込まれ、ネットワークで結ばれた無数のコンピュータの存在は、確かに、各個人にかつてなく多様な選択肢を与え、創造的なコミュニケーションを支援するだろう。しかし、そのシステムは、同時に、消費者が自分の趣味のなかにひきこもり、主体的な選択や社交から逃避することも可能にしてしまう。第六回で論じたように、環境がユーザーの嗜好を先取りし、選択肢を絞り込み、面倒な雑務を代替してくれる世界は、自由の感覚を増加させると同時に、「自由からの逃走」も容易にするのだ。

自由からの逃走、という言葉には政治的な含意がある。しかし、ここで問題とされているのは、何も政治的な自由に限らない。たとえば、前述のようにGPS付き携帯電話が普及した世界においては、昼食時や夕食時が近づくと、かつて利用した(そしてほぼ自動的にメールアドレスが登録された)ファーストフードやファミレスのチェーンから最寄りの店舗を紹介するメールが届く、というサービスが実現可能になる。

むろん、ひとによっては、このようなサービスを煩わしく思い、あらかじめ登録や配信を拒否するように携帯電話の設定を変えておくはずだ。それに、そのメールが届いたからといって、無視するのは個人の「自由」である。しかし、おそらく、多くの消費者は、適切なタイミングで適切な指示が届けば、何となくその指示に従ってしまうのではないだろうか。私たちは、毎日毎晩熟慮のうえで食事をしたいと思っているわけではない。忙しいときや疲れているときなど、店を選ぶことそのものが煩わしい場合も多い。前述のサービスは、まさに、そのような気分のときに適している。それは、消費者の自由を拡大するというよりも、むしろ「自由からの逃走」を支援するサービスなのだ。言い換えれば、消費者を「動物化」し、画一化するサービスである。

「スマートな大衆」論

したがって、情報技術の効用は、私たちがそれを「人間的」な場面で用いるのか、「動物的」な場面で接するのかによって対照的なものとなる。同じ技術でも、私たちが固有名をもつ存在として「現れ」ている場面(活動の領域)で利用するのか、無名の消費者として隠れている場面(労働=消費の領域)で利用する(利用させられる)のかによって、まったく異なった顔を見せることになるだろう。

このような整理を行うと、それならば、ひとりひとりが主体的に技術に接して、知らないうちに個人情報を奪われたり、ダイレクトメールの文言や電子商取引サイトの提案に従ったり、仮想世界に耽溺して創造的で社交的なネットワークの可能性を忘れたりしないように意識を高めればよいのではないか、と反論する読者もいることだろう。問題は、情報社会の本質云々というよりも、単純に情報リテラシーの教育の問題なのではないか、というわけだ。それもまた正論である。コンピュータやネットワークに通じ、その可能性を知るひとであればあるほど、そのような考えを好むようだ。

たとえば、『思考のための道具』『バーチャル・コミュニティ』などの著作で知られるアメリカのジャーナリスト、ハワード・ラインゴールドは、昨年の秋に、本論と同じくユビキタス社会の到来を扱った新著を出版している注1。この著作では、小型の通信機器を身にまとい、たえず情報を交換しあい、いままでにないネットワークを生み出していく新しいタイプの群衆が、「スマートな大衆」と呼ばれ、その未来が肯定的に謳いあげられている。ラインゴールドがそこで注目したのは、iモードやP2Pの急速な普及、無線ICタグの出現、Linuxの開発過程、それに二〇〇一年のフィリピンでの政変でインスタント・メッセンジャーが果たした役割などである。近未来の情報社会では、群衆は、もはやかつてのように等質で無名で画一的な存在にとどまらない。群衆のままでいながら、多様なコミュニケーションを抱えた創発的な存在に変わる。

本論で繰り返してきたように、このような「スマートな大衆」の出現には必ず否定的な側面が伴っている。大衆が「スマート」になったのは、群衆ひとりひとりを細かく追跡するネットワークが整ったからだが、それはまた管理強化の手段にもなるからだ。ラインゴールドもその二面性には注意を払っており、同著の最終章は、まさに「常時接続のパノプティコン、……あるいは共同作業の増幅器?」と題されている。ここまでの議論は本論と通じるものがある。

しかし、結論が異なっている。ラインゴールドがそこで最後に辿り着くのは、スマートな大衆が今後「消費者」という受動的な存在に変えられてしまうのか、「ユーザー」あるいは(アルヴィン・トフラーの言う)「プロシューマー」として能動的な存在であり続けるのか、それは今後の私たちの選択にかかっている、という常識的な問題提起である。このような結論は読者を安心させることだろう。情報社会の未来は、人々の意志にかかっているというのだから。

人間はつねに人間的でありうるか

筆者がこの連載で喚起したかったのは、まさにこの「正論」への疑いである。情報技術の針が自由の側に振れるのか、権力の側に振れるのか、それは本当は区別できないものなのではないか。能動的なユーザーであり続けるのか、受動的な消費者に転落してしまうのかは、決して二者択一ではなく、同じ現象の表裏なのではないか。つまり、未来の情報社会は、私たちの意志にかかわらず、相互監視が行き届いた窮屈で画一的な消費社会としての側面を帯びざるをえないのではないか。

実は、筆者がこのような疑いを抱く背景には、出発点となる人間像の相違がある。ラインゴールドをはじめ、前記のような正論を展開する論者たちは、無意識のうちに、ひとは生活のすべてを制御する「主体」となるべきだし、またそれが可能だとする強い人間像を前提としている。ひとは、怠惰に流れがちな動物性を抑えこみ、どのような場面でもつねに意識的に振る舞うべきであり、情報技術に対してもそれは同じだというわけだ。前回も触れたことだが、その理想は、具体的には、高度な技術的知識とリテラシーを身につけ、確固たる目的をもってコンピュータやネットワークを使いこなす、ハッカーやビジネスマンたちに体現されている。

このような人間像は、社会思想史的には、たえざる自己監視を植え付けた近代社会の規律訓練型権力によって陶冶されたものである。本論が参照しているアーレントでさえ、労働=消費の拡大に懸念を覚え、ひとは活動の領域に参加してこそ「人間」でありうると述べた点で、同じ価値観を共有していると言わざるをえない。

しかし、すべてのひとにつねに「主体的」であれ、とする要請は、はたしてどれほど現実的だろうか。筆者がここで述べたいのは、真の意味で「人間」になれるのは少数のすぐれた人物にすぎず、圧倒的多数は動物性を抑えこむのに失敗する受動的な存在である、といったエリート主義ではない。問題は「すべての」にではなく、「つねに」のほうにある。筆者は、その能力がどれほどのものであれ、ある人物がつねに主体的であることができる、という想定にこそ違和感を覚えているのだ。

たとえば、フリーソフトの開発コミュニティに属し、ゲームやアプリケーションを自発的に公開し、世界中から送られるバグレポートやパッチの応対に追われつつも充実した毎日を送っている二〇代の青年を考えてみよう。インターネットのこのような利用法は、主体的で創造的なものだ。彼はシステムに使われるのではなく、システムを使いこなしている。このような人間像が、既存の情報社会論には繰り返し現れる。

しかし、実際はどうだろうか。たとえば彼は、ネットワークを駆使した主体的で創造的な時間のあと、空腹を満たすため宅配ピザを注文し、名前と住所を告げないだろうか。事務所から帰宅するときに、自動改札を通過しないだろうか。寝つけない夜に訪れたレンタルビデオのチェーン店で、暴力映画やポルノを借りないだろうか。それらの消費行動は必ずしも主体的で創造的なものではない。高度なリテラシーをもち、コンピュータやネットワークの危険性を熟知したハッカーも、日常生活の大半においては、小売業やメディアから与えられた商品を受動的に消費する「動物」でしかない。そして、近未来の情報社会においては(右の事例においてはすでにいまでも)、それらの行動も逐一データ化され、サーバへ送られ、物流管理と顧客管理の精緻化に資することになる。「共同作業の増幅器」と「常時接続のパノプティコン」は、ひとりの生活のなかで、何の問題もなく共存してしまうのだ。

マルチチュードを支える消費生活

また別の角度から考えてみよう。前回でも紹介したように、ネグリとハートは、最近の著作で、一方に環境管理型権力で支えられた巨大な「帝国」を、他方にグローバルなネットワークが支える「マルチチュード」の多様な運動を想定し、この両者の争いが現在の政治の基本的な対立軸だと主張している。

彼らの議論は抽象的なので一概には言えないが、この「マルチチュード」を、ラインゴールドが「スマートな大衆」と呼んだものと重ねて考えてみても、それほど誤りではないだろう。現在のNPOや市民運動は、党のようなツリー型の組織に頼らず、個々の成員がメールや携帯電話を介して連絡を取りあい、従来よりはるかに柔軟な構造で、しかも迅速に運営されている。そしてそのコミュニケーションを支えるインフラ(たとえばインターネット)は、そのまま、世界経済を画一化し、人々を動物化する環境管理型権力のインフラでもある。ネグリたちは、このような逆転にこそ、マルチチュードが帝国の権力を「再領有化」し、マルクスがかつて述べた「人間的解放」が実現する可能性を見ている注2。これはきわめて魅力的な図式である。

しかし、筆者は、この図式にも似たような違和感を覚える。ネグリたちは『帝国』の末尾で、マルチチュードの理念型として、第二次大戦時のレジスタンスの闘士を挙げる注3。しかしこれは適切なイメージだろうか。実際には、現代の政治運動の参加者もまた、生活の多くの場面では、グローバル化した消費社会の論理のもと、与えられた選択肢を消費する「動物」でしかないのではないのだろうか。彼らは、反グローバリズムのデモに出かけた翌日には、ファーストフードで昼食を取り、外資系のシネコンでハリウッド映画を鑑賞し、アメリカのサイトにアクセスしてTシャツを個人輸入しているのではないだろうか。そして、そこでは、さきほど帝国に対抗するため「再領有化」したばかりのインフラ(多国籍企業やインターネット)を、ふたたび帝国を強化するために使っているのではないだろうか。その消費行動は、マイナーなレストラン経営者や映像作家やデザイナーからすれば、グローバリズムの手先そのものに映るかもしれない。

筆者はそれを非難したいのではない。市民運動や体制批判の重要性を軽視するつもりもない。ここでは、ただ、一方にシステムに支配された受動的で「動物的」な生があり、他方にその支配から解放された能動的で「人間的」な生がある、という二分法を疑いたいだけである。

私たちはフルタイムには人間ではいられない。ひとは、特定の関心領域においては人間的な主体として行動するが、それ以外の多くの場面では、動物的な消費者として既存の選択肢にたやすく従ってしまう。そして、ひとが「主体になる」領域は各人で異なる。ハッカーは反グローバリズムにはまったく興味がないかもしれない。運動家はマクドナルドに抵抗感がないかもしれない。マクドナルドを嫌悪するひとが、映画はハリウッド作品しか観ないかもしれない。インディーズの映像作家が、著作権の管理にはうるさく、ハッカーとクラッカーの区別もつかないかもしれない。この複雑なポストモダン社会では、それらすべてを横断し、どの領域においても「人間的」になれるような確固たる知的な位置(第三者の審級)は存在しない。

これ以上の詳細に踏む込むのは本論全体の主旨から外れるので避けることにするが、筆者がここで出発点にしているのは、内なる動物性を克服し、トータルな人間へと上昇する弁証法的な人間像ではなく、怠惰で動物的な消費生活のなかにパートタイム的に「活動」を点在させる、断片的でポストモダン的な人間像である。私たちの社会は、各人がそれぞれ人間性と動物性を抱え、それらの発揮される領域がばらばらに組み合わさったモザイク状の構造をなしている。だからこそ、インターネットからユビキタスにいたる技術は、だれに対しても、どの領域においても、自由の拡大と管理強化の二面性を帯びてしまう。それが、私たちが迎えつつある情報社会の姿である。

ネットワークに接続されない権利

以上の議論を前提にして、もういちど匿名性の問題に戻ってみよう。あらためて匿名性とは何か。

第九回で指摘したように、インターネットに代表される新しい情報インフラでは、発信者と受信者のあいだに本質的な差異がない。ネットワークに接続することが、そのまま、ネットワークに向けて個人情報を発信すること、つまり「顕名的」な存在になることを意味する。したがって、この環境下における匿名性は、原理的に、ネットワークから離れることでしか確保されない。そこで、以下では、匿名性の概念を、ネットワークに接続されない権利、そこから離脱し、情報発信を停止する権利を意味するものとして捉えなおしてみたい。

誤解を避けるため付け加えておけば、技術的には、ネットワークを利用しつつ、ユーザーの匿名性を確保する方法はいくつか考えられる(暗号の利用など)。しかし、ここでは、技術的に正確な定義というより、むしろ理念について議論していると理解してほしい。

匿名性の概念をこのように捉えなおすことで、表現のような能動的な場面で行使される「隠す」権利ではなく、動物的で受動的な消費の場面で行使される「防ぐ」権利のほうがより繊細に扱われるべきものであることが明らかになる。能動的な匿名性は、ネットワークとの接続を確保し、情報の発信を意図しながらも(たとえば電子掲示板に誹謗中傷を書き込みながらも)、特定の場合(たとえばIPアドレスが取得されるとき)にだけその接続を解除しようとする権利であり、そもそも矛盾した要請を抱えている。したがって、そこで隠されないものと隠されるもののバランスが、良識に照らしてケース・バイ・ケースで判断されるのは当然のことだろう。

しかし、受動的な匿名性は、内部にそのような矛盾を抱えていない。それはむしろ、発信と受信が等価であり、コンピュータが生活環境に埋め込まれ、人間的な活動にしろ動物的な消費にしろ、何か行為するごとに個人情報を奪っていく情報社会=顕名社会のインフラそのものへの懐疑に繋がっている。言い換えれば、いまや選択肢が個人情報との交換で提供されるものに変わり、多様性と管理強化はますます切り離せなくなり、自由と権力という対立構造そのものが成立しなくなっているとはいえ、にもかかわらず、実はその構図全体が何か別の価値を忘れたうえで成立しているのではないか、という深い感覚に繋がっているのだ。

アクセシビリティと顕名性

ではその正体は何なのか。具体例で考えてみよう。

このところ、無線ICタグあるいはRFIDタグと呼ばれる技術がにわかにマスコミの注目を集めている。本論でも幾度か名前だけ挙げているが、それは、簡単に説明すれば、小型のIC機器(タグ)の情報を、無線によって非接触で読み書きする技術のことである。日本でもすでにJR東日本のSuicaなどで実用化されている。

Suicaでは、搭載されたタグの通信距離が短く、また通信速度も遅いため、カードをいちいち読み取り装置にかざす必要がある。しかし、技術的には、周波数帯やアンテナの出力を変えることで、数メートルの距離でも通信可能なタグを作ることができる。このような装置の普及は、タグの価格のような経済的障害、電波法との調整のような法的障害さえ解決されれば、かつてなく精緻な物流管理や顧客管理を可能にすると言われている。無線ICタグが普及した世界では、ネットワークに接続するのは、もはやコンピュータや携帯電話だけではない。財布のなかのカードからコンビニで手に取った雑誌や清涼飲料水まで、身の回りのあらゆるモノが環境と通信し、データに変換されてネットワークへと送られることになる。このような技術の実現は、私たちの社会の顕名性をますます高めていくことだろう。

ところでここで考えてもらいたいのが、つぎのような例である。RFID技術は、物流管理の充実だけではなく、福祉の場面でも重要な役割を果たすと考えられている。たとえば、特定のカードを身につけた視覚障害者が近づくと、障害の内容に応じて、自動的に画面表示が拡大されたり、音声ガイドに切り替わったりする自動券売機やATMが開発できる。このようなサービスは障害者の公共空間へのアクセシビリティを飛躍的に改善するだろうが、しかし、同時に、プライバシーの観点からするときわめて危険なことも事実である。読み取り装置の場所が確認できない重度の視覚障害者を想定する以上、前記のサービスでは、Suicaに較べ大幅に長い通信距離を確保せざるをえない。これは、言い換えれば、カード内のデータが、本人の知らぬまに数メートル離れた地点から読み取り可能だということである。だとすれば、当然、通信を傍受する愉快犯や怪しげな業者などが現れるにちがいない。

このような二面性は、さきほどの枠組みでは、情報技術を「現れ」の場面で能動的に利用しているのか、逆に受動的に利用させられているのかによって、場面ごとに変わるものだと整理されていた。つまり、ユーザーが自らの意志で障害情報を告知するときには、そのサービスは彼(あるいは彼女)の自由を拡大する肯定的な役割を果たし、逆にユーザーがその意志をもたず、周囲の環境によって勝手に情報を奪われてしまうときには、同じサービスが管理の担い手になるのだと言われていた。しかし、そのような能動/受動の区分が、この場合にどれほど現実的だろうか。(この項続く)


(現在準備中)